浅春の山陰紀行(五)-松江にて(上)-
毎週のように金曜日にはブログに投稿してきた。そんなふうに決めておかないと、書けなくなる質(たち)だからである。そんな性格は、律儀、生真面目、神経質、堅物といろんなふうに表現できそうである。どれもこれも大体当たっている。いつもであれば金曜日の前に原稿はできており、比較的余裕を持って投稿してきた。しかしながら、リホーム絡みの事務連絡に時間を取られ、それに加えて家族内のあれこれの出来事にも対応を迫られて、すっかり余裕をなくしてしまった。団地の新聞に投稿するなどの用件も加わったから尚更だったかもしれない。そんなわけで、金曜日の朝にこの原稿を書き始める始末である。
今回の3泊4日の調査旅行では、1泊目は出雲に泊まり2泊目と3泊目は松江に泊まった。松江のホテルは宍道湖の湖畔に建っており、朝食の会場からは湖が見渡せたし、朝の散歩に出るのにも丁度いい場所だった。山陰も初めてのような場所だったから、勿論松江にも来たことはなかった。なのに、松江と聞くと何故だかとても懐かしい場所のように思えた。何故なのだろう。この場所が素晴らしいという文章を読んだり、あるいはまた松江を撮った写真集を眺めていた所為もあったかもしれない。
それらに関しては後に触れることにして、まずは松江の何処を巡ったのかを記しておこう。2日目の午前中に荒神谷史跡博物館と公園を訪ねたわれわれは、その後松江市内に戻り、まずは遊覧船に乗って堀川を巡った。その後昼食を挟んでラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の記念館と旧居を見学し、さらには松江城の天守閣にも上った。そして夕方には島根県立美術館を訪ね、宍道湖の彼方に沈む夕陽を眺めた。それぞれが、松江を代表する観光スポットとなっているようだった。余りにも世に知られた観光スポットというものは、必ずしも人の心を動かすとは限らない、そんな感じもしなくはなかったのだが…。
堀川を遊覧船で巡っていると、松江が水の都であることが実感された。松江が何故水の都と呼ばれるのかといえば、市内を流れる堀川や大橋川、そして宍道湖や中海などの水辺と水資源が、水運や水産、農業を支え、街の景観や文化にも大きな影響を与えてきたからであろう。水運では、宍道湖や中海や大橋川に囲まれた松江は、江戸時代には水運の要衝として栄え、北前船が物資を運ぶことで町が発展したというし、水産に関して言えば、宍道湖はヤマトシジミの漁獲高が日本一で、「宍道湖七珍」として知られる水産物が特産品として全国的に知られているらしい。シジミについては聞いたことがあったが、「宍道湖七珍」なる言葉は今回初めて聞いた。
この私が関心を抱いたのは、上記のようなことではない。市街地を流れる堀川や、「日本の夕陽百選」にも選ばれたという宍道湖の夕陽が、何とも美しい景観をつくりだしており、ここを訪れた人々を魅了していたことである。この私も魅了された一人である。堀川はかつて生活用水や交通路として利用され、現在も遊覧船が運行するなど、水辺と一体となった生活が今も残っている。水が流れれば暮らしの必要から橋が架けられることになる。松江には、小さな橋まで含めれば数え切れないほどの橋が架けられていることだろう。
私が生まれ故郷を思う時に浮かび上がってくるのは、山であり川でありそして橋である。山は勿論だが、川もまたいつまでも昔の姿を留めており、だからこそ懐かしく感じるのであろう。松江城を囲む堀は築城とともに造られており、今も昔の姿を留めている。遊覧船は、この堀を中心に堀川や京橋川や米子川を巡るのだが、それだけでも多くの橋をくぐった。なかには遊覧船の屋根を折りたたみ、乗客が身を屈めなければ通れない橋もあった。船内は満席になればかなり窮屈で、足を延ばせば無作法であり正座すれば苦しく、身の処し方にいささか困った。昨年の夏に出掛けた倉敷でも感じたことだが、こうしたものは乗るものではなく、土手からぼんやりと眺めているのがいいのかもしれない。
同じような感覚を松江城に出掛けたときにも抱いた。この城は、松江開府の祖である堀尾良晴とその孫で二代目藩主の忠晴によって慶長16(1611)年に築かれており、江戸時代の姿をそのままに残した国宝である。江戸の初期以降は松平氏が10代にわたって城主を務めている。一帯は城山公園として整備されており、松江市内のあちこちで城の姿を眺めることができる。言ってみれば、松江のシンボルのような存在なのであろう。
年寄りの冷や水かとも思ったが、せっかく来たのだからと天守閣まで上ってみた。急な階段が続くので足下に注意しなければならず、辿り着くまでが(そして降りるときも)大変である。だが、天守閣からの眺めは取り立ててどうというほどのものではなかった。堂々とした立派な城なのだが、立派すぎてどうも興趣に欠けるのである。それよりも、街中から眺めた城の姿の方が余程美しく思われた。とりわけ夕暮れ時のシルエットが何とも言えなかった。個人的には、松江城の側にあった興雲閣の方が気になった。明治時代のの美しい洋館である。
この城の歴史を調べてみると、なかなかに興味深い。城が完成した1611年に堀尾良晴は死去、1633年には忠晴も死去し、嫡子がなかったために改易となり、翌年京極忠高が移封。しかしその3年後には忠高も死去し、彼にも嫡子がなかったために改易となる。その翌年の1638年に信濃の松本藩から松平直政が移封してその後10代続いたとのこと。松江城の城主というと松平のイメージが強いが、7代目藩主松平冶郷の所為もあるのかもしれない。彼は茶人としてもよく知られており、号は松平不昧(まつだいら・ふまい)である。
たまたま手元にあった田中仙道堂の『茶の湯名言集』(角川文庫、2010年)を眺めていたら、そこにも不昧の言葉が紹介されていた。そのなかの一つに、「時世のうつりゆきを弁(わきま)へず、一と所にあしをとめて移り行くを知らざるものは、生涯の下手と申すべきなり」があった。わざわざ訳文を付すまでもなかろう。不昧とは道理に暗くないとの意であるが、そんな言葉を号とした彼らしい一文である。彼が開いた不昧流とは、作法やしきたりに縛られすぎず自然体の茶の湯を重んじる流派だとのこと。不昧流で生きてみるのも悪くはなかろう。