浅春の山陰紀行(二)-世界遺産資料センターにて-

 このところ連日飽きもせずに我が家のリフォームに取り組んでいることもあって、ゆったりした気分でブログに向かうことがなかなか難しい状況が続いている。どうせのことならブログにアップする日を遅らせてもいいかと思ったが、それをやり出すとなんとなくクセになるような気もしたので、引き続き週1回のペースを維持することにした。根っからの小心者なのである。こういう時の文章はどうも荒れ気味になるようで、前回書いたものをあらためて読み直しているうちに、気になるところがあれこれ出てきた。

 とりわけ気になったのは、「早春の山陰紀行」と題したタイトルである。「早春」という表記が余りにもありきたりで嫌になった。そこでもう一度考え直して、「早春」を「浅春」に変えることにした。根はずぼらなくせに、時折やたらに細かいところに拘る質だからであろうか。タイトルを直したついでに、あれこれの表現にも手を入れてみた。文意が通じなくはないが、読んでみると妙に気になるところが出てくるのである。写真と同じで、素人の文章の場合もたくさん書きたくさん手直ししなければ、気に入ったものは生まれないのかもしれない。

 今回の調査旅行は連日好天に恵まれた。石見銀山の世界遺産資料センターの周りにはまだ雪が残っていたが、春の日差しを浴びて雪解け水がセンターの屋根からしたたり落ちていた。ここは、世界遺産となった石見銀山を紹介する資料館であり、現地見学の拠点ともいうべき場所である。世界遺産条約には、「文化遺産及び自然遺産の保護、保存及び整備の分野における全国的、または地域的な研修センターの設置」が義務付けられているとのことで、世界遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」の調査研究、資料収集、情報発信等の機能を担う拠点施設、および総合ガイダンス施設として、2007年から8年にかけて設置されたとのこと。

 展示棟は見応えがあった。石見銀山が世界遺産に登録されることになった理由は、 ①16世紀から17世紀初頭の世界経済に与えた影響が大きかったこと、②銀生産の考古学的な証拠が良好な状態で保存されていること、③銀山と鉱山集落から輸送路、港にいたる鉱山活動の総体が良好な状態で残されていること、以上の3点である。こうした登録の意義を踏まえつつ、長年にわたる石見銀山遺跡を巡る発掘や調査の成果がわかりやすく展示されていた。

 「世界史に刻まれた石見銀山」と銘打たれた第一展示室には、銀が16世紀の大航海時代に果たした世界的な役割が詳しく紹介されていた。千ノ山(せんのやま)という外目にはごくありきたりの山から発見され採掘された銀は、その後各国による争奪戦を通して「地球を丸く」していくのである。この辺りのことに関しては、豊田有恒の『世界史の中の石見銀山』(祥伝社、2010年)が参考になる。

 「石見銀山の歴史と鉱山技術」と銘打たれた第二展示室には、石見銀山がいつ頃発見されどのように鉱山が発展し、最盛時には20万人を超えるような街が形成されていったのか、さらには狭い穴蔵のような銀の採掘現場や、大量生産を可能にした灰吹法(はいふきほう)と呼ばれる製錬技術に関して紹介されていた。今では想像を絶する労働現場である。

 興味深かったのは第四展示室である。「石見銀山遺跡とその文化的景観」を最新技術によって俯瞰出来たからである。石見銀山遺跡はかなり広範囲に広がっており、実際に銀が掘られた場所にまで行くには、センターからさらに山奥に入らなければならない。クルマではなく徒歩で行くのである。しかも雪解け道を行くのであるから、そうした場所は私のような年寄り向きではない。センターの展示で満足であった。

 採掘の現場は「間歩(まぶ)」と呼ばれ、これまでに龍源寺間歩や大久保間歩や釜屋間歩が発見されている。下世話な私は、落語にちょいちょい登場する間夫(有夫の女と密通している男のこと)ならよく知っていたが、間歩とは初めて聞く言葉だった。鉱石を採掘するために掘られた坑道のことである。それに加えて精錬所跡も二カ所見つかっている。掘り出され精錬された銀は、銀山街道を通って日本海側の港である温泉津(ゆのつ)や沖泊や鞆ヶ浦(ともがうら)から博多に運ばれたのだという。前二者の港も世界遺産の構成資産となっている。きっと落ち着いた佇まいの静かな港町なのだろう。寄ってみたくなったが、写真集で満足するしかない。

 この間石見銀山に関する本や資料を眺めてきて、よく分からなかったことが二つあった。一つは、山師などとも呼ばれた鉱夫の労働実態であり(鉱夫は坑夫とも書き、漱石の異色作として同名の作品がある)、もう一つは大久保間歩にも名を残している大久保長安(おおくぼ・ながやす)の蓄財の仕組みである。前者に関して言えば、鉱山労働に関する病の総称として鉱山病というものがどの鉱山にもあり、塵肺がよく知られている。石見銀山ではどんな状況だったのかが気になった。

 センターに置かれた資料を眺めたが、石見銀山の鉱山労働を取り上げた本や著作は見当たらなかった。世界遺産への登録とは関係がなかったからであろうし、遺産の陰や闇の部分であったからかもしれない。その点で参考になったのは、シルバーラッシュに沸く石見銀山を舞台にした千早茜(ちはや・あかね)の『しろがねの葉』(新潮社、2022年)である。彼女はこの作品で直木賞を受賞している。

 「無数の銀掘(かねほり)たちが生みだした、黒い化け物の如き間歩」で働く男たちは、咳をし黒い血を吐き若死にしていく。ヨロケ(珪肺の俗称)や気絶え(けたえ)にやられるからである。「銀掘は長うは生きられん」がために女たちは二度も三度も嫁ぐことになる。「隼人の面影を写した息子も、龍の面影を写した息子も、間歩に入り、咳に苛まれ、死んでいった。娘たちばかりが生き延びた」のである。何とも切なくも哀しい男と女の世界である。