浅春の山陰紀行(三)-大森の街並みを歩きながら-

 現在最後のリホーム中だということは、既に紹介済みである。この間作業は大分進んできた。我が家には長年にわたって3匹の飼い猫が住み着いていたが、その猫も昨年8月に亡くなったサスケを最後に、一匹もいなくなった。3匹とも家人にたっぷりと可愛がられて家族同様に暮らしていたから、誰もいなくなってみるとその存在がどれほど大きかったのかが改めて痛感される。

 猫たちが生きていた証は、カーテンや壁紙、襖、クローゼットののひっかき傷などにたくさん残された。今回のリホームを機会に、部屋のカーテンとカーテンレールをすべて新調し、破れた壁紙などを補修してみた。そしてまた、テレビや自動掃除機、インターホンなどの旧くなった家電製品を買い換えた。この後畳やガス給湯器なども新しくする予定である。そこまで済めばリホームも終了である。連休明けぐらいまでは掛かるかもしれない。

 そんなことをできるだけ自力でやっているものだから、作業そのものは案外面白くはあるが、時間はそれなりにかかる。そんなことに熱中していると、いつの間にかブログの締め切りが迫ってくる。先週もそうだったが今週も同様である。前回のブログでは、知りたかったことが二つあったと書いた。一つは石見銀山で働いていた鉱夫の労働の様子であり、もう一つは大久保長安の蓄財の仕組みである。前者については前回のブログでごく簡単に触れたので、今回は後者について触れてみる。

 長安については、人文科学研究所の調査旅行で知り合いとなった川上隆志さんが、『江戸の金山奉行 大久保長安の謎』(現代書館、2012年)というそのものズバリの著作を纏めている。私の知りたかったことが直接書かれていたわけではないが、甲州の能楽師の家に生まれ、鉱山開発で家康に重用されて老中にまで出世し、その力故か家康に畏怖され、死後一族皆殺しに会うという数奇な運命を辿った長安の全体像を知るには、格好の本である。

 川上さんは、長安の業績を次のように纏めている。「長安は、まず鉱山の採鉱や製錬の技術を大革新した。甲州流の採鉱法を取り入れ、竪穴を掘り進めるやり方から、横穴を掘り進める坑道掘りを採用し、鉱脈を広く深くたどれるようになった。さらに、灰を利用して鉛と金銀の混合物から金銀を取り出す灰吹法に代わって、「水銀ながし」とか「水銀床屋」と呼ばれる、水銀を利用する南蛮流の技術、アマルガム法を導入した。人材の登用にあたっても、山師や金掘人を各地から登用するとともに、現地の有能な人間を抜擢し、その能力を結集する。これらの新技術と巧みな人事によって、石見、佐渡、伊豆の金山・銀山の開発では驚異的成果をあげることができたのである」と。

 川上さんの著作から堀和久の『大久保長安(上)(下)』(講談社文庫、1990年)にも辿り着いたが、そこには次のような興味深い記述がある。「『地位の高い者は知行を少なくし、所領の多い者には権力を分与しない』は祖法となり、徳川幕府二百六十余年を通じて、臨時職の大老をのぞき、老中の資格は五万石前後の家禄の少ない譜代大名に限られた。こうした権力と財力との分離を、家康は統治の根本方針としたにもかかわらず、家康自身が大久保長安ひとりを例外としたのは、なにゆえであろうか。それは、長安があまりにも有能であったからだ。同時に、長安という人間の、その忠勤が、信じられたからである」と。こうした権力と財力の融合に、根っからの女好きも加わって、豪奢な振る舞いとなっていったのであろうか。

 われわれは、間歩に出向く代わりに、重要伝統的建造物群保存地区(略称は重伝建)に指定されている大森の街並みをのんびりと歩いた。市町村は条例などによって伝統的建造物群保存地区を指定しているが、そのなかでも、特に価値が高いものとして国が選定したのが重伝建である。こうした場所を佐渡の宿根木でも、桐生の桐生新町でも、中之条の六合(くに)赤岩でも、倉敷の倉敷川畔でも歩いたが、いずれも郷愁を感じさせる場所だった。

 この大森の街並みもそうだった。観光客の眼差しにも配慮しつつ、旧き良き物が大事に保存されていた。保存だけではなく、旧き良き物があちこちの家や店に作り込まれていた。家々には一輪挿しの花が飾られていたし、自動販売機にも木の意匠が施されていた。しかしながら、それが鼻につくようなことはない。田舎の静かで落ち着いた佇まいの街並みである。通りの両側には覗いてみたくなるような店がいくつかあった。

 中高年女性向けの服飾で知られる群言堂(ぐんげんどう)もあった。この日は休業日だったようで、なかの様子を覗くことは叶わなかったのだが…。ここの経営者でもあり、デザイナーでもある松葉登美さんは、『過疎再生 奇跡を起こすまちづくり』(小学館、2021年)という本を纏めておられる。彼女がおられたならば、過疎地におけるまちづくりの思想のエッセンスを直接聞いてみたかった。その代わりと言っては何だが、途中立ち寄った熊谷家住宅では、豪壮な民家の内部を見学させてもらい責任者の方から話も聞くことができた。その丁寧で熱心な話しぶりから、この町への深い愛情が感じられた。

 「げたのは」という変わった名前の焼き菓子の店もあった。菓子どうしをたたき合わせると下駄で歩く音がすることからそう名付けられたとのこと。滅多に菓子などは買わない私だが、菓子に付けられた宣伝文句を見たら、「銀山(やま)の人夫達はこの菓子を食しながら作業をしていました。丹精込めた昔ながらの製法です。ご賞味くださいませ」とあったので、ついつい買ってしまった。銀山で働いていた人々の労働を思い描きながら菓子を囓ってみた。実に素朴な味わいだった。

 そんなふうにして郷愁に身を委ねながら歩いていて、かつては佐渡金山、石見銀山とともに三大鉱山と言われた半田銀山のことを思い出した。江戸から明治期に欠けて隆盛を極めた銀山である。場所は私の生まれ故郷福島市の隣に位置する桑折町にあった。坑道にはもはや入れないようだが、そこには半田沼と呼ばれた小さな沼があった。そこに、父に連れられて家族で出掛けた記憶がある。見たのは桜だったのかそれとも紅葉だったのか。懐かしい思い出である。

(追記ー1)

 街角には、平成十九年八月 に制定されたという「石見銀山 大森町住民憲章」が表示されていた。街並みにも似て、何の気負いもてらいも感じられない素朴で真っ直ぐな文章だった。だからこそ、味わい深い憲章になっているのではあるまいか。そのまま紹介してみる。 

 このまちには暮らしがあります。私たちの暮らしがあるからこそ 世界に誇れる良いまちなのです。私たちはこのまちで暮らしながら人との絆と石見銀山を未来に引き継ぎます。

       記

  未来に向かって私たちは

一、歴史と遺跡、そして自然を守ります。
一、安心して暮らせる住みよいまちにします。
一、おだやかさと賑わいを両立させます。