東日本大震災私記(四)
第3章 埋もれた記録から-もうひとつの福島とは-
毎年暮れには、福島に住む弟から林檎や凍豆腐(しみどうふ)、あんぽ柿などの田舎の懐かしい食べ物が送られてくる。2011年は放射能の影響のせいかあんぽ柿はなく、そのかわりに洋梨が加わっていた。姉からも林檎と手紙が届いた。その手紙には、元高校教師の姉の連れ合いも名を連ねている「福島県立学校退職教職員九条の会」による「フクシマからのアピール」が同封されていた。このアピールには、今から30数年前の日々が「悔しさと後悔の念」を交えつつ次のように綴られている。
福島第一原発の建設に不安を抱いた住民は、国を相手に裁判を起こそうとしました。しかし原告団に名前を連ねると、たちまちにして地元有力者をはじめ、様々な圧力や切り崩しにあい、つぶされていったのです。それでも第二原発の建設計画が明らかにされると、住民による抗議・反対運動は繰り広げられ、1973年、全国初の公聴会開催にまでこぎつけることができました。ところが、意見陳述人として選ばれたのは、原発推進派の地元有力者らが圧倒的に多く、その上、外部からの傍聴希望者の大量応募で、肝心の地元住民の多くは会場から閉め出されてしまったのです。「原発の危険性を明らかにする」はずの公聴会は、全体としては「原発推進の場」に変えられてしまいました。現在問題になっている「やらせ」は、実に福島での公聴会当時から既に行われていたのです。
承服できない住民は、翌年、今度は様々な妨害・障害を乗り越えて、404人にも及ぶ大原告団を組織し、国を相手に「原子炉設置許可処分取り消し」を求める裁判を起こしました。私たち教職員の仲間も大勢加わりました。裁判では、使用済み核燃料・核廃棄物の最終処分が未解決であること、原発立地は持続的な地域開発に結びつかないこと、そもそも日本のような地震大国に技術的に未完成な原発を建てること自体に大きな危険があること、万が一にも地震や津波によって重大な事故ともなれば広範・多面かつ長期に放射能被害をもたらし、福島は放射能被害の一大実験場と化すだろう、とまさに今日の事態を警告し、訴えたのでした。
これに対し国(東電)は、「多重防護策による絶対安全」を主張する一方で、「原子力は安くて安全、資源小国日本に最もふさわしい上、環境に優しいクリーンエネルギー」との「神話」をまき散らしました。しかも第一原発にいたっては、冷却用海水汲み上げ費用節減等のため、海抜35メートルの大地をわざわざ25メートルも削り取って建設したのです。/17年9ヶ月にも及ぶ裁判は、国(東電)の主張を認め、住民の訴えを退けるものでした。こうして「原発反対」の声を実らせることができず、あの狭い地域に10基もの原発が建ち並ぶとになったのです。
またこのアピールは、教師としての深い自戒を込めながら次のようにも述べている。「私たちも、原発のある風景に次第に慣らされてくるにつれ、危険性を訴え、運動を継続したのは一部の人にとどまり」、反対運動の輪を大きく広げることができず、「国・東電・地元推進者たちがこぞって広めた『安全神話』、『原発による地域の振興』の掛け声を押し止める」こともできなかったことから考えれば、それは「結果として、たとえ積極的に支持することはなかったにしても、『原発のある社会』を容認してきてしまった」ことなのであって、「深い悔いと責め」を覚えるというのである。
今であれば、政府のお粗末な危機管理を扱き下ろし、東電の無責任な対応を叱り飛ばし、御用学者の不届きな言説をあげつらうことなど、いかにも容易な振る舞いとなった感がある。批判されて当然のことばかりであるから、そのことに特段の違和感はない。だが、これまで原発にも放射能にも何の関心も示してこなかったような人々さえ、「事件」に便乗するかのごとく、平気であれこれと「正義」の議論を書き散らしてもいる。そんな時代の相を眺めていると、あまりにも腰が軽過ぎるようにも感じるのである。アピールのように「深い」とまでは言わないにしても、「原発のある社会」を容認してきた自分に些かなりといえども「悔いと責め」を感じるような姿勢なしに、原発ゼロに向けた運動が大きな共感を呼んで広がっていくことはあるまい。
この義兄は、昨年夏に福島に顔を出した折に、『高校の歴史と教師の歩み-福島県立高教組の20年によせて-』(1980年)から原発反対運動関連の箇所をコピーしてくれた。福島でも原発反対運動があったことを、この私に伝えたかったのであろう。わずかばかりの「悔いと責め」を感じていた私は、すでに30年も前に次のように書かれていたことに、あらためて驚かされた。福島育ちだというのに、こうした現実をほとんど知ることもないまま今日まで生きてきたからである。興味深い箇所をそのまま紹介しておく。
世界に例を見ないといわれるほどの原発集中立地をすすめてきた福島県の原発行政は、1960年(昭和35)5月、県が原子力産業会議に加盟し、大熊、双葉両地区を原発適地確認したことから始まりました。原発を拠点とする県の「地域開発」方針を受けた大熊町、双葉町は、61年、町議会、町当局があいついで誘致決議や県と東京電力に対する陳情をおこない、原発受け入れの世論づくりをおこないました。/1964年(昭和39)5月、後に汚職が発覚して辞職した木村守江が知事に就任しました。彼は「私は原子力発電に対して、あまり知識のない人たちが集まって、いろいろお話をしても、その効果はあまりないんじゃないか、かえって逆な方向になることも心配されるというような考え方を持っております」(1972年6月県議会での発言)といった県民蔑視の立場から、県開発公社を通じて原発建設のための用地買収をしゃにむに推し進め、さらに1968年(昭和43)には、東京電力第二原発と東北電力浪江原発の建設計画を受け入れました。政府は、1966年(昭和41)に第一原発一号炉の設置を許可したことに始まり、1972年(昭和47)までの間に、六号炉までの設置許可を与えました。そして1974年10月には、浜通り住民がおこした「第二原発設置許可に対する異議申立」を却下しました。こうして集中過密の原発基地群づくりが強行されてきたのです。
この本は、勿論のことだが原発建設に反対した住民運動についても詳しくふれている。その詳細について紹介する余裕はないが、1972年6月にはいわき、広野、楢葉、浪江の住民組織によって「浜通り原発・火発反対連絡協議会」がつくられ、翌1973の2月には富岡町の住民組織もこれに加わり、同年9月には浜通り地方の4つの住民組織の呼びかけで、「原発・火発反対福島県連絡会」がつくられている。
この県連絡会には県立高教組、日本科学者会議福島支部、共産党福島県委員会などの労働組合、団体、政党が加わり、全県的な規模の組織へと発展したのだという。高校教師はこうした反対運動の発展に重要な役割を果たしたようで、先の県連絡会では事務局の中心としてその運営に努力してきたというし、1974年、75年におこされた住民訴訟のなかでは、原告団長をはじめ多くの教師が原告団に加わってもいる。上京して故郷を離れ、日々の暮らしに悪戦苦闘していた当時の私などが、知りもしなかったし、知ろうともしなかった福島の過去である。