東日本大震災私記(三)

 第2章 大震災が教えるもの-記憶される過去、蘇る未来-

 大震災の年が明けて、2012年の新年を迎えた。新年などというものも、人間の知恵によって人為的に区切られた時間観念にすぎないから、新しい年を迎えたからといって、それだけで何か事態が大きく変わるわけもない。こんな冷めた見方になるのは、すっかり齢を重ねたせいもあろう。この年も教え子たちから多くの年賀状をもらったが、そのなかには、あまりに酷い年であった昨年を振り返り、今年は明るい年にしたいなどと書くものもいくつかあったが、多くの年賀状は大震災にふれてさえもいなかった。私としては何とも物足りなかったが、しかしこれが冷ややかな現実でもあるのだろう。

 大震災の年の11月にカミサンの母親が亡くなったが、「世間知らず」で「臍曲がり」な私は喪中葉書は出さなかった。それどころか、例年のように必要な人にだけは年賀状まで書いた。思い返してみれば、12年前に亡くなった父の時もそうだった。亡くなった人に対する想いは、それぞれの人の心のなかにひっそりと息づいているのであって、喪中葉書などに宿るはずもないと思っているからである。死者1万5844名、行方不明者3451名にも達した東日本大震災の犠牲者(2011年12月29日現在)を一人静かに悼み、深く記憶するしかない。

 雪が舞う寒空の下で今でも行方不明者の捜索が続いているというのに、私の住む世界ではクリスマスのイルミネーションが美しく輝いていたし、近くのデパートはお節料理を準備しようとする人でごった返してもいた。繰り返し悼み繰り返し記憶しようとしなければ、東日本大震災もおそらくもうすぐ忘れ去られることになるはずである。深い自戒を込めて言えば、ちょうど阪神淡路大震災の時の私がそうだったように…。

 勤務先のゼミナールでは毎年卒業・進級論文集を作成しているので、今回は大震災関連の論文が何本か登場するのではないかと思いもしまた願いもしたが、案に相違してわずか1本に止まった。テーマがあまりにも大き過ぎたために、さまざまなことが語られ過ぎたために、あるいはまた労働問題との関連がつけにくいために、論文にはならなかったということなのかもしれない。だが、果たしてそれだけなのか。大震災を「事件」としてとらえ、テレビの映像で視覚的に受け止めただけの人、つまり、次から次に「事件」が起こる慌ただしい「現実」の世界を眺めているだけの人にとっては、「過去」を我が身に定着させることがきわめて難しい、そんな事情もあるような気がする。言うまでもないことではあるが、「現実」に流されて「過去」を記憶できなければ、新しい「未来」など築けるはずもないのではあるが…。

 石巻専修大学を抱えるわが大学でも、被災者支援のために義援金が集められ、ボランティアが現地に派遣され、修学支援の相談会が被災地で開かれ、新たな奨学金制度も創設された。それぞれに意義のある試みではあろう。この間震災関連の本を読み、写真集も眺め、映像も凝視した。そのどれもこれもが胸を痛める内容だったのだが、今でもその印象が褪せないのは、最初に読んだ内橋克人編の『大震災のなかで 私たちは何をすべきか』(2011年6月、岩波書店)である。そこで語られていた内容が、すでに「あの日」の「その後」を予言していたようにも思われるからである。

 「廃墟とがれきの中から、無念と慟哭の声が聞こえてくるようだ」と述べる長谷川公一(環境社会学者)は、今回の事態を「第二の敗戦」ととらえ、「私たちは、津波被害から地域の安全・安心を守りきることができなかった。しかも福島第一原発事故によって、放射能をまき散らし、海と大地を汚し、世界中を震撼させてしまった。なぜ守れなかったのか。なぜ危うい原発推進政策から転換できなかったのか。この認識からしか再出発できないのではないか」と主張する。直後に延々と続く被災地を廻った人間にして言える、当然の主張だろうと思う。どの問題でもそうであろうが、大事なのはどのような問いから始めるのかということである。そして、言うまでもないことではあるのだが、その問いは現場からしか生まれてはこない。

 被災者に刻み込まれた「人間的な痛み」に注目する清水康之(NPO法人「自殺対策支援センター ライフリンク」代表)は、「道路が復旧しようと、街にビルが建ち並ぼうと、それで和らぐ類のものではない。むしろ復興に向けた社会的気運が高まるほどに、自らの胸の内とのギャップに苦しむ人が増えていく」ものなので、痛みから「回復していくための社会的支援が不可欠」だと言う。ところが彼によれば、既存の復興計画は社会経済的基盤の回復に偏っており、これでは、戦後日本の「奇跡的な復興」が陥った逆説を繰り返すことになりかねないと憂慮する。すなわち、「目に見えるあらゆるものが装飾された『世界がうらやむ豊かな社会』が実現したが、そこに生きる人間が幸福感を持てずにいる」という逆説である。

 では、再出発はどのようなものであるべきなのか。「被災者にとって、被災地は『生活』の場だが、それ以外の者にとって、被災地は『事件』の場だ。『事件』の現場と思って赴くと、そこには『生活』がある」と述べる湯浅誠(反貧困ネットワーク事務局長)は、今回の「『事件』によってすべてが切断され、更地になり、リセットされたと考え」るような復興論には歴史性がないと批判する。そのうえで彼は、「『復旧』ではなく『復興』というそれ自体としては至極もっともな意見」に対しても、必要なのは「『生活』に呼応した復興」であり、「『事件』に呼応した復興」は、しばしば「『生活』の復旧」に劣るし、ときには対立すると述べる。こうした立場に立って、「大災害という『事件』を時代の画期とする」ためには、私たちが「『事件』をそれ以前から続く『生活』との連続性において捉え直す中で自ら作り出さないかぎり、生まれない」と主張する。

 被災者の「『生活』に呼応した復興」をめざすうえで今後大切なことは何であろうか。玄田有史(「希望学」の提唱者)は次のように述べる。「歴史にはつねに理由がある。地域の実情を知らないと、固有の歴史や文化は無視され、ややもすれば無駄のない計画や実践ばかりが尊重される」が、「復興には、地元の実情や住民一人ひとりの思いや感情をふまえるため、粘り強い対話による現地の合意形成」が必要であり、「現場主義、現地主義」の実践が求められていると。被災地を歩いた地元新聞の記者は、「被災した住民が恐れていること」は何かとの彼の問いに、「忘れ去られること」だと即答したという。その答えの裏側には、被災しなかった者がなすべきことの一切が含まれているのではあるまいか。