暮れから正月へ

 今回はいささか時節外れのブログとなる。タイトルからして何とか一月中に投稿したかったのだが、とうとう二月にずれ込んでしまった。今日は2月3日月曜日。年が明けて迎えた一月睦月も早々と過ぎ去って、昨日はもう節分である。もはや周りに正月の名残りは何もない。今年の我が家の正月は例年以上に静かだった。というのは、昨年の8月に家族の一員のようにして暮らしていた飼い猫のサスケが昇天したので、喪に服していたからである。そんなわけで、例年取り寄せていたお節料理はやめて、雑煮とちょっとした正月料理だけで済ませた。年賀状も今年で終わりにすると既に知らせてあったから、出しもしなかったし、受け取った年賀状に返事もしなかった。買い出しに追われるような年の瀬の気分になることもなかったので、何とも落ち着いた年末だった。

 時間に余裕が出来たので、暮れの30日には近くのイオンシネマに出掛けて『正体』を観てきた。映画というものも見出すと案外クセになるところがあって、翌31日には家で『砂の器』を見た。紅白を見なくなってから大分時間が経つが、今年もまったく見ずじまいだった。そもそも余程のことがない限りテレビを付けないので、何とも浮世離れした暮らしを続けているからである。中居正広やフジテレビの話などはまあどうでもいい。勿論だが、そんな暮らしを自慢するつもりもない。年が改まってからは、これも家で『ゴッドファーザー』3部作を見た。全部見ると9時間にも達する大作である。名作と言われる映画は、何度見ても飽きることがない。見る度に新たな発見がいくつもある。新しいものを追いかけるのも悪くはないのだろうが、それだけでは何とも味気ないような気もする。正月のような時こそ普段見ないようなものを見る、そんな贅沢もいいのではあるまいか。

 3日になってから、娘と小僧二人に誘われたこともあって、浅草に出掛けてきた。この私は、初詣に行きたかったわけではなく、港北ニュータウンなどにはない正月風景をカメラに収めたくて出掛けたようなものである。仲見世通りを歩きながら、あちこちの店で買い食いをした。4人だと分けて食べれば一人当たりは少量となるので、いろんなものを食べることが出来る。どれもこれもB級グルメなのだが、賑やかな街で家族と一緒に食べているととても美味しく感ずる。3人は浅草寺に初詣ということだったようだが、小僧の引いた御神籤が二人とも「凶」だったのが笑えた。もはやこれ以上落ちることはないんだから、「凶」もそれほど悪くはないと教えてやった。写真を撮るのに夢中になって境内で三人を見失ったが、こういう時こそ文明の利器スマホの出番である。昔だったら結構面倒なことになったはずだが、すぐに連絡を取り合い合流できた。

 せっかく浅草に来たのだからと、浅草演芸館でも覗いてみようと前まで行ったが、大勢の人だかりで大分待たされそうだった。初笑いを楽しみにしている人が多いのであろう。そんなわけで入場を諦めた。代わりに、お好み焼きともんじゃ焼きを食べることにした。この手の店も待たされそうだったが、たまたま小さな店に入ることができた。寒い季節にお好み焼きとビールはよくあう。別に寒くなくてもあうのではあるが…(笑)。何とも不思議だったのは、この店の主人が作り方にやけにこだわっており、あれこれとわれわれに指図し続けたことである。いささか口やかましすぎた。小言幸兵衛のような人物なのか。主人は大分高齢のようだったから黙って拝聴していたが、ああいう年寄りにはなりたくないものである。聞かれたら答えるぐらいが丁度いいのだろう。もっと大らかに、「どうぞ好きなように食べて下さい」とでも言えるような人物であれば、なお良かったのだろうが…。

 正月風景を撮りたいという思いが強かったものだから、浅草行の翌々日には一人で川崎大師まで出向いてみた。浅草ほどではないが、ここもそれなりに賑わっていた。それにしても、着物姿の女性がなんと少なくなったことか。門松も滅多に見かけない。腹が空いたので何か食べようと思ったが、年寄りが一人で立ち食いもないなあと思い、甘酒を飲んだあと店に入ってお汁粉を食べた。この店は以前川崎大師に出掛けたときに入ったことのある店だった。その時も娘と小僧二人が一緒だった。その前には家人と娘二人で来たこともあった。懐かしい思い出である。お汁粉に添えられた佃煮のようなものが旨かったので、聞いたところ麩(ふ)で作ったのだという。葛餅とこの佃煮を土産に買った。

 ところでこの川崎大師だが、駅前の観光案内所に置かれていたパンフレットには次のようなことが書かれていた。もろもろの災厄をことごとく消除する厄除大師として、霊験あらたかであると昔から知られる川崎大師のおこりは、平安時代末期・崇徳天皇の御代まで遡ります。無実の罪により生国である尾張(現在の愛知県)を追われ諸国流浪の果てに川崎にたどり着いた平間兼乗(ひらま・かねのり)は、漁師として慎ましく生計をたてながら、深く仏法に帰依しとくに弘法大師を崇信していました。兼乗が42歳厄年のとき、夢まくらに高僧が立ち「我むかし唐にありしころ、我が像を刻み、海上に放ちしことあり。以来未だ有縁の人を得ず。いま、汝速やかに網し、これを供養し、功徳を諸人に及ぼさば、汝が災厄転じて福徳となり。諸願もまた満足すべし」と告げたのです。

 夢のお告げに従い海にでた兼乗が、光り輝いている場所に網を投じ海中から引き揚げた木像こそ御本尊・厄除弘法大師尊像でした。兼乗は尊像を浄め、ささやかな草庵にお祀りし朝夕欠かさず供養を捧げました。ある時、諸国遊化の途中に偶然兼乗のもとを立ち寄られた高野山の尊賢上人は、尊像奉祀の由縁と兼乗の境遇を知り感激され二人で力をあわせ、大治3年(1128)一寺を建立。兼乗の姓・平間から平間寺(へいけんじ)と号し、御本尊に厄除弘法大師を奉安されました。そして、長承3年(1134)お大師さまのご加護ご利益により無実の罪が晴れた兼乗は、生国に帰ることができました。皇室の篤い尊信や11代将軍・徳川家斉公の厄除け祈願参拝によって、江戸庶民の間をはじめ全国に「厄除けのお大師さま」として一層広く知られることになり、今日に至ります。

 厄除け参りをしたら厄払いができるようであればこの人生苦労はないのだが、そうは問屋が卸さない。帰宅してから家人に、空海にちなんで「葛餅でも食うかい」などと言ってみた(笑)。しかしながら、真面目すぎる家人にはその手の駄洒落は通じない。その後しばらくして、知り合いから北山田で行われるどんど焼きに誘われた。こちらでも正月風景が撮れそうな気がしたので、出向いてみたのである。知り合いに言わせると、ここのどんど焼きが区内で最も盛大だとのこと。町内会がおでんやお汁粉や豚汁の店を出していたので、それらを食べながら点火を待った。高く積まれた竹にたくさんの正月飾りが持ち込まれたので、燃えさかる様はなかなか見応えがあった。この私には、その火が昇天したサスケの送り火のように見えた。一月に残された新年の行事は、月末のささやかな新年会のみであったが、それも終わった。のんびりした静かな正月も悪くはない。