晩秋の武蔵野を歩く

 このブログに投稿するにあたって、先々4~5回分ぐらいのタイトルだけは考えておく。そうしておかないと、書き始める時になって、さて何を書こうかというところから頭を巡らさざるを得ないことになるからである。これでは、原稿に追われて何とも忙しない感じである。

 老後の道楽でやっているのに、追われているようでは笑うに笑えない事態である(笑)。道楽に真面目に励むようなばかばかしさだとでも言えばいいだろうか。そうならないように、先にタイトルを決めておき、その中身について暇な時間にぼんやりと考えているのである。この時こそが一番愉しいのであり、いささか大仰に表現すれば、私にとっての至福の時間である。

 タイトルを決め、その中身についてある程度のストーリーを考えておくと、原稿を書く時の負担はかなり小さくなり、その分だけ老後の道楽に近付いていく。それほどの字数ではないので、書き始めればたいていの場合1~2日で書き上げるのであるが、勿論そう簡単にはいかないこともある。他人に読んでもらえるような原稿になっているのかどうか、自分でも自信が持てない時である。

 他人に読んでもらえるかもらえないかは相手次第なので、どうであってもまったく構わないし、またそれほど気にもしていないのであるが(笑)、自分が読んでみて面白くもなんともないものはなかなか投稿する気にはなれない。やはり格好を付けたくなる。格好は恰好とも書いて、恰(あたか)も好(よ)し、つまりもともとは似つかわしいさまの意である。どの辺りが自分にとって似つかわしいのかは、自分が一番よく知っているので、勿論むやみやたらに高望みしているわけではない(笑)。

 なかなか格好が付かない時は、四苦八苦して何とか形を整えなければならなくなる。そんな時もたまにはある。そうなると、1週間ほどの間隔で投稿することが難しくなる。時間を延ばしたからと言って、いいものになるわけでもないのだが…。逆にさっさと原稿が出来上がってしまい、通常よりも短い間隔で投稿することが可能な時もある。書き上げてしまうと、どうせこのまま投稿するのならあまり間を置かずに載せておこうという気になるからである。

 上記のようなことは、広い意味での体調とも無関係ではない。体調が今一つの時はなかなか格好が付けられない。当然であろう。さらに、体調が今一つではなかなか外に出る気にもなれない。もともと外出を自粛している現状なので、そのうえ更に家に籠もっていては、ブログに投稿する材料も見付からない。つまり、老後の道楽に耽ることが難しくなるのである。

 幸いこの秋は心身ともに比較的元気に過ごしていたので、3密にならないところへはよく顔を出した。11月の末には、年金者組合のウオーキングで武蔵国分寺跡に出掛けてきた。晴れていれば晩秋、曇っていれば初冬と変わるような時候である。幸いこの日は好く晴れたので、晩秋のウオーキングには絶好の日和だった。

 JR溝の口駅の改札で待ち合わせとなったので、遅れないように出向いた。少し早めに着いたので、駅前のデッキからしばらく空を眺めた。真上は晴れ渡っていたが、斜め上辺りには筋状になった秋の雲が浮かんでいた。このところよく雲を眺めるが、気持にゆとりが出来たからなのであろうか。

 南武線に乗車して府中本町で武蔵野線に乗り換え、西国分寺で下車した。武蔵野線に乗ったのは初めてである。駅からほんの僅か歩いたところで、案内人の塩野さんが「この先は恋ヶ窪という地名なんですよ。何だかロマンチックですね」などと語った。そんな言葉を口にする彼のセンスに好感を抱いた。

 しばらく歩くと東山道武蔵路(とうざんどうむさしみち)に出た。幅12メートルもある直線道路である。説明板によれば、東山道は都と近江、美濃、飛騨、信濃、上野、下野、武蔵、陸奥の各国府を結ぶ古代の官道だということである。その幅の広さには驚いたが、当時を偲ぶものは周りに何も無い。

 私が心を動かされたのは、その先にあった都立国分寺公園であった。この公園は泉地区と西元地区に分かれており、二つの地区は「ふれあい橋」と名付けられた橋で結ばれている。泉地区の池や噴水、藤棚なども趣向が凝らされていて好かったが、もっと素晴らしかったのは西元地区の方である。

 広々とした芝生の中にサクラやイチョウ、ケヤキの大きな木が点在し、時折鳥が群れをなして木々の間を飛ぶ。野鳥の森と言うだけのことはある。何も無い公園の素晴らしさであろうか。ここで昼食休憩となったので、公園の周りを一人で散策してみた。周辺には雑木林が残されており、そんなところを誰にも会わずに歩いていると、武蔵野の林の中に溶け込んでしまいそうな感じになる。溝の口から1時間とちょっとの所に、こんな素晴らしい場所があるのである。みんなを引き連れて来てくれた案内人のご苦労に、素直に感謝した。

 その後、真姿の池やお鷹の道を通り、往時の国分寺七重の塔の復元した模型や資料館入り口の長屋門を見たり、国分寺の楼門や万葉植物園を眺めたりしながら、武蔵国分寺とすぐ近くにある国分尼寺の跡地に辿り着いた。歴史に詳しい方はよくご存知なのであろうが、8世紀初めのわが国は藤原氏の勢力拡張から政界が動揺し、社会の混乱を憂えた聖武天皇は、仏教の持つ鎮護国家の思想によって国家の安寧を図ろうとしたらしい。

 741年には国分寺建立の詔を出し、国ごとに国分寺・国分尼寺を設けさせることにしたという。七重の塔を建て、丈六(立像の高さが一丈六尺ある仏像のこと)の釈迦像を安置し、護国の経典を備えさせ、国分寺には僧20人、国分尼寺には尼10ずつ置くことにしたという。国分寺、国分尼寺の伽藍の造営は全国的な大事業であった。

 この辺りのことに関して、私は山川出版社の『日本史研究』と題した大学受験の参考書から引いたのであるが、それが大事業であったことは、東西1.5キロ、南北1キロにも及ぶ国分寺の跡地の広さからも窺われた。東山道武蔵路にはほとんど何も感じなかったのだが、二つの跡地には古人(いにしえびと)の痕跡が残っているようにも思われたのは何故だろう。

 今日は12月31日、大晦日である。今年ももうすぐ終わる。前回の投稿からまだ4日しか経っていないのだが、敢えて投稿することにした。昨日は満月だったので、今日は十六夜(いざよい)の月ということになる。冷え切った冬の夜空に、煌々と輝く月が浮かび地上を照らしていた。

 今夜の除夜の鐘には特別な思いが込められることであろう。今年ほど「普通が一番」だと強く思った年はない。そしてまた、その願いを実現できるのは、「普通が一番」だと考える「普通の人々」以外にはなかろう。明日になれば年は改まる。皆様どうぞよいお年を!