晩夏の日本海紀行(四)-新潟編-
第三部 新潟・新潟湊にて
山形での二日目は、月山ワインで知られるワイナリーや酒田にある米菓工場などの視察が続いた。月山の麓まで来ると、渓谷や吊り橋もあってやはり山峡の地に来たという感じがする。月山は、湯殿山や羽黒山とともに出羽三山のひとつに数えられ、修験者の山岳信仰の山として知られている。だから「霊峰」なのであろう。夕刻までにこの日の調査をすべて終えて、我々は次の目的地である新潟市に向かった。バスは日本海の海岸沿いの道路を新潟までひたすら走ったのだが、途中は民家が点在するだけの風景が続いたので、いささか寂しい地域のようにも感じられた。
北前船の寄港地は、酒田湊の次は新潟湊でありそこまではかなりの距離がある。途中に寄った道の駅も閑散としており、「裏日本」の醸し出す雰囲気が急に身近なものとなって迫ってきた。日本海に沈まんとする夕日が雲間に見え隠れしたが、そんな寂しさを募らせる光景を眺めながら、曇天の夕暮れ時を走った所為もあるのかもしれない。私はと言えば、そろそろ調査旅行も終わりに近付き、旅の疲れが少しばかり感じられたこともあって、車中ではぼんやりと物思いに耽った。
出雲崎と松尾芭蕉のこと
山形では、『おくのほそ道』に触れて稿を起こしたので、ここでもその続きということで芭蕉の道行きをなぞっておこう。「酒田のなごり日を重ねて、北陸道の雲に望む。遙遙の思ひ胸をいたましめて、加賀の府まで百三十里と聞く鼠の関を越ゆれば、越後の地に歩行を改めて、越中の国市振の関に到る。この間九日、暑湿の労に神を悩まし、病おこりて事をしるさず」とある。老躯を押しての旅に加えて、「暑湿の労に神を悩まし、病おこりて」という状態であったようだから、芭蕉もかなり苦しかったのであろう。「旅に病んで夢は枯野をかけ巡る」という辞世の句を彷彿とさせるような状況である。
日本海の海岸線との海沿いの丘陵の間にある僅かな平地を、旧北国街道(西では北国街道、東では北陸街道と呼ばれた)は通っていたわけだが、今でも人気のないところなのだから、昔はかなり寂しい街道だったに違いない。北国街道の最北端の地は先の『おくのほそ道』に出てきた鼠(ねず)の関であり、この関は山形県と新潟県の県境にある。もうひとつの市振の関は、新潟県と富山県の県境にある。この二つの関の間が越後ということになる。この越後で芭蕉が詠んだ句としてで誰もが知っているのは、「荒海や佐渡に横たふ天の河」である。この句も、当時の芭蕉の心身の状況を知ったうえで鑑賞すると、また違った趣が感じられる。
夜の荒海、金山と流人の悲しい歴史を秘めた佐渡、そして天の川伝説を一つに織りなして、何とも壮大な心象風景を詠んだこの有名な句は、出雲崎で詠まれたとされており、その出雲崎には、芭蕉が宿泊したという旅籠のそばには芭蕉園と呼ばれる庭園が整備され、先の句を刻んだ石碑も建てられている。しかしながら、近年の研究によると、芭蕉が出雲崎に到着した日は大雨であったことや、同行した曽良の書き残したものなどから見て、この句は直江津での作ではないかとも言われているようである。
昨年秋に、私は富山での学会の帰りに出雲崎に二泊したが、狭い街なのでそのぐらいの日数があればおおよそのところは見ることができる。ここは、江戸時代は天領地であり、佐渡の金銀が荷揚げされたり北前船が寄港したこともあって、かなり栄えた場所だったという。当時の人口は約2万人ほどもあり、人口密度は越後一といわれたほどの土地柄であった。ここにある道の駅は「天領の里」と命名されており、そこに併設されている天領出雲崎時代館は、300年前に賑わった時代を再現したもので、かなり大きな御奉行船をはじめ、代官所、北前船、江戸時代の家並みなどが展示されていた。ここ出雲崎は、妻入りの長屋建築の街並が保存されており、今も当時の面影を残している。また、民衆に広く慕われた良寛が生まれ過ごした土地としても有名であり、立派な良寛記念館も建てられている。ここで私が出雲崎に触れているわけについては、後ほど紹介したい。
小澤家住宅と「裏日本」のこと
新潟市内のホテルに宿泊した我々は、翌日旧小澤家住宅を訪ねた。ここは、江戸時代後期から新潟町で活躍していた商家の小澤家の店舗兼住宅だったところである。旧小澤家住宅は、かつての新潟町における町家の典型的な作りであり、明治時代に成長を遂げた豪商の屋敷構えを構成する一連の施設が、ほぼ当時のまま残されている。小澤家の来歴を記したパンフレットによると、小澤家は江戸時代後期には米穀商を営んでいたようだが、明治の初めに当主は廻船業に乗り出すことになる。以後、運送・倉庫業、回米問屋、地主経営、石油商とさまざまな事業に進出し、新潟を代表する商家の一つになったという。江戸時代から続く数々の商家が衰退していくなかで、小澤家が隆盛を維持することができたのは、常に新しい分野に挑戦して新事業を開拓していったからなのであろう。一攫千金を夢見ながら、小澤家の歴代の当主は旺盛なまでのフロンティア精神を発揮したらしい。
小澤家の繁栄の背景には、北前船の寄港地としての新潟湊の発展がある。新潟県の主な港は、北から岩船、新潟、出雲崎、柏崎、今町(現在の上越市)そして佐渡は小木となるが、そのうちもっとも取り扱い量が多かったのは新潟湊である。信濃川と阿賀野川の二つの大河の舟運と直結していることによって、魚沼、長岡、越後平野の全域の米にとどまらず、会津藩や米沢藩の米も新潟湊から運び出されていた。諸藩は徴収した年貢米の一部を売って現金化しようとしたため、大坂などのできるだけ高い価格で売れる土地で米を売り捌こうとした。米は湊の近くに建てられた各藩の蔵に保管され、販売は藩が直接行うのではなく「蔵宿(くらやど)」と呼ばれる商人に委託されていたと言う。
米の積み出しで新潟湊が栄えた元禄時代には、諸藩の蔵が新潟町内に69棟あり、港から運び出された年貢米は34万4000俵もあったらしい。また、年貢米とは別に、農村から商人が集めた米が、諸藩の年貢米の総数よりも多い36万5000俵あり、合計すると1年間で80万俵もの米が新潟から船で運ばれたという記録もある。当時新潟湊に入って来た船は40か国から年間3500艘余りもあったと言われている。年間といっても、冬場は海が荒れるのでどの船も港に入って春を待つので、その期間を除けば一日平均で150艘近くが入って来ていたことになる。新潟湊の当時の賑わいぶりが窺えるだろう。このようにして、北前船のもたらした各地の湊の繁栄ぶりを知ってみると、日本海側を「裏日本」などと呼ぶのはためらわれる。
今もそしてまた先程も、括弧付きではあれ「裏日本」という表現を使ったが、この言葉には複雑な思いが籠もる。例えば、作家の高田宏は『日本海繁盛記』(岩波新書、1992年)で書いている。「裏日本というのは、もう光を失った土地への蔑称である。表日本を自称する人びとが日本海側をさして裏日本と言うのは、傲慢で鈍感な言い方だ。無知でもある。北前船の歴史のほんの一部でも知れば、おのれの無知を恥じなければならないだろう。北前船にかぎらない。日本列島史についての無知である」と。たとえ「ほんの一部」ではあれ、北前船の歴史に触れた私としては、ここまでの指摘にはまったく同感であり、異を挟むつもりもない。
だが、高田は続けて次のように書く。「ただ、私自身は、日本海のそばに育った者として、裏日本という言葉に親しみと誇りがある。日本海側の大半は雪国で、その雪の日々はむしろ裏日本という言葉にふさわしい。表日本は明るすぎる。自然条件の明るさと共に近代化の明るさでうかれている浅薄さがある。裏日本は近代化にとりのこされてきたけれども、そのぶん奥行きは深い」と。私自身は「裏日本」に生まれ育ったわけではないが、東北の福島育ちなので高田の指摘に共鳴するところ大である。「明るさでうかれている浅薄さ」に胡散臭さを感じているからである。陰影を礼賛したい人間なので、ただ明るいだけなのがどうも体質に合わない。
そのうえでなのだが、よくよく考えてみると、「表日本」と呼ばれるところにも表と裏があり、「裏日本」と呼ばれるところにも表と裏があることにも思い至るのである。北前船の歴史を辿るなかで感じたことは、「裏日本」の表にのみスポットライトが当てられ、日本遺産として称揚されているのではないかという危惧である。「荒海を越えた男たちの夢が紡いだ異空間」といった表現に、わずかに違和感を感ずるのはその所為であろうか。過去の栄華の歴史を掘り起こすだけであったならば、それは「表日本」と「裏日本」を分けた近代化の論理を、同じような形で「裏日本」に適用しただけのようにも思えるのである。相変わらずの臍曲がりな私ではある(笑)。
小澤家を見学した後は自由行動となり、各自で昼食をとることになった。折角新潟に来たのだからということで、同行の何人かと古町通りにある田舎屋に出掛けた。ここは郷土料理の店で、私は鮭わっぱとのっぺい汁を食べた。この店には北大路魯山人の器も展示されていたようなのだが、うっかり見過ごしてしまった。田舎屋も悪くはなかったが、私は古町通りの趣きにも惹かれた。来年2019年は新潟開港150年ということで、当時の新潟の芸妓の写真などが通りに飾られていたからである。看板をよく読むと、「港まち文化の象徴が、200年の歴史を誇る古町芸妓です」と書いてある。古町はそういう場所として栄えたのであろう。
新潟大学付属図書館にて
午後からは新潟の米菓工場の見学が予定されていたが、私はここでバスから降り、同行の方々と別れて新潟大学の図書館に出向くことにした。そこには、私の母の実家にあった夥しい数の国書や漢籍、古文書が、「佐野文庫」と名付けられて収蔵されているので、是非一度直に見てみたいと思っていたからである。母の実家は、新潟県の出雲崎にある西越村の地主であり、その佐野家は、戦後農地改革で没落する前までは、地元でよく知られた家だったらしい。今で言えば、旧家とか素封家などにあたるのであろうか。
叔父が書いた手記には、「祖父の喜平太が尼瀬町で廻船問屋をしていた時代から、西越村中條で57歳で亡くなるまでの約50年間に買い集めた書物が27,500冊あまりあり、祖父はそれを家財蔵に保管して」いたとのくだりがある。集められた書物は、当時佐野家の当主であった叔父の佐野泰蔵が病に倒れたために、蔵書の管理が困難となったこともあって、まとめて新潟大学に寄贈された。あの安保闘争の年1960年のことである。それらが、新潟大学附属図書館に貴重な資料として保管されていることは知っていたが(その概要はネットでも詳しく知ることできる)、これまで実物を見たことはなかった。そこで、調査旅行の最終地となった新潟で途中下車させてもらって、図書館に顔を出したというわけである。
一人別れた私は、あいにくの空模様で雨もぱらついてきたこともあって、駅までタクシーを使うことにし、新潟駅から越後線に乗って新潟大学まで向かうつもりでいた。タクシーのなかで運転手と他愛の無い会話を交わしているうちに、安くするから大学までタクシーで行かないかと勧められた。雨も降っているし荷物もあることなので、それでもいいかと思いタクシーで図書館に向かった。図書館では、佐野文庫に縁のある人間がわざわざ訪れたということもあって、大変丁重に迎えていただいた。
寄贈された資料は、稀覯本として特別に管理された部屋に収蔵されたうえ、一冊一冊の冊子がそれぞれの形状に合わせて作られた布張りのケースに入れられて、きちんと整理されていた。新潟大学の図書館の宝として、私の想像以上に大切に扱われていることがよくわかった。資料の価値などまるでわからない門外漢の私ではあるが、職員の方々の丁寧な説明を伺うこともできて、ひとりでに心が温もった。佐野喜平太も、そしてまた佐野泰蔵も、以て瞑すべしと言わねばならないだろう。この辺りのことに関しては、自分出版社として立ち上げた「敬徳書院」のホームページに既に記しているので、興味のある方はそちらもご覧いただきたい。
ところで、新潟大学の附属図書館のホームページを見ると、佐野文庫解題というタイトルで次のように指摘されている。そのまま紹介しておこう。「佐野文庫は、別名『敬徳書院蔵書』と称し、新潟県三島郡出雲崎町在住の佐野喜平太氏が明治・大正年間に収集した 蔵書である。本学附属図書館は、昭和35年喜平太氏の孫である佐野泰蔵氏(元新潟県立新潟高校教諭)から、この蔵書を購入した。総数は和漢の典籍5,237点と地方古文書約2,800点に及ぶ一大コレクションである。佐野家は、江戸時代に佐渡の金山の渡海港・北前船の寄港地として栄えた出雲崎湊を拠点に活躍した廻船問屋であり、屋号を泊屋と称した。のちに地主に転じた。佐野喜平太氏は幕末の慶応2年に出生した。明治20年、22歳で尼瀬石油社設立に関与し、頭取となる。 尼瀬石油社が石油算出量の減退のため挫折した後は、政治の道へと転身する。明治33年の立憲政友会新潟支部結成に際して評議員となり、明治34年には町長に選出され、尼瀬町と出雲崎町の合併問題に奔走した。その後、明治36年に県会議員、明治45年には第11回総選挙に当選し、衆議院議員となった。
このような政治・経済活動の傍ら、喜平太氏は学問を好み、法律や漢学の研鑽を積んだ。 明治中期から大正初年にかけての約30年間、さまざまな書物を購入している。 こうして収集された文庫に、副島種臣が『敬徳書院』と命名したと言われている。佐野文庫に収められた資料を分類すると、国書、漢籍、古文書の3つに大別される。国書部門は、文学・儒学・史学・漢学を中心に多岐にわたっており、名家・学者の旧蔵書など貴重な図書が少なくない。漢籍部門は経部・史部・子部・集部ともまんべんなく収集されており、多くの和刻本に加え、中国明・清時代の 刊本や朝鮮の銅活字本も含まれている。古文書部門は佐野家の文書と尼瀬町名主の京屋(野口家)文書から構成 されている。
筆者の勝手な推測であるが、尼瀬石油の頭取や地主、さらには町長、県会議員、衆議院議員と政治家の道を歩んだ佐野喜平太は、そうした生き方に飽き足らないところもあって、政治家でもあり文人でもあった副島種臣のような存在に憧れを抱いていたのではあるまいか。その憧れが、おびただしい書物の蒐集に繋がっていったのかもしれない。豪農文化や地主文化という言葉があることからもわかるように、当時の資産家には、広い意味での芸術や文化に関心を示した人物が多かったようである。彼らは、蒐集家やパトロンになったりしたのである。佐野喜平太もその端くれだったのであろう。なお、佐野文庫のことについては、中西聡『北前船の近代史』(誠文堂書店、2013年)の巻末に収録されている北前船関係資料案内にも、一言触れられている。