晩夏の日本海紀行(三)-山形編-
第二部 山形・酒田湊にて
山形は私の育った福島県の隣県なので、少しは知っているとは言うものの、私にとっての山形は、せいぜいが米沢市や山形市止まりで、その先は勿論、酒田や鶴岡(ここには藤沢周平記念館がある)のような日本海沿いの山形については何も知らない。幼き日に父に連れられて山寺に出掛けたことや、中学・高校時代の友人が山形大学に進学したので、その頃山形を訪ねたこと、さらには福島での温泉巡りの帰途に米沢に顔を出したことなどが思い出される。数年前には、米沢駅で山形新幹線の上りと下りを間違えて乗ってしまい(笑)、隣の駅で慌てて降りたはいいが駅前には文字通り何もないという田舎の駅で、やむなく葡萄を口にしながら待合室で無聊を慰めたこともある。今でも一人苦笑いを禁じ得ない思い出である。
『おくのほそ道』と最上川のこと
山寺で思い出されるのは、急峻な岩山の上に建つ立石寺である。ここは、芭蕉が『おくのほそ道』で「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」の句を詠んだところとして、よく知られている。芭蕉は、この山寺に立ち寄った後大石田(尾花沢市の近くにある大石田町)に出る。『おくのほそ道』には、「最上川乗らんと、大石田といふ所に日和を待つ。(中略)最上川は陸奥より出でて、山形を水上とす。碁点、隼などいう恐ろしき難所あり。板敷山の北を流れて果ては酒田の海に入る」と記されている。
山形と言えば最上川であり、この時に最上川を詠んだ句も有名である。「五月雨を集めて早し最上川」である。最上川はわが国三大急流の一つということのようだから、きっと今でも急な流れなのであろう。芭蕉は河口となる酒田でも最上川を詠んでいる。こちらは「暑き日を海に入れたり最上川」である。いかにも大河の趣が感じられる句である。どちらの句もその情景が目に浮かぶようである。酒田に至る途中出羽三山の一つである月山を見て、「雲の峰いくつ崩れて月の山」という句も詠んでいるが、これもなかなか雄大である。
最上川流域もまた、米沢盆地、山形盆地、新庄盆地、庄内平野を抱えたわが国屈指の米どころであり、稲を積んで川を下る舟を稲舟(いなふね)と呼んだ。いかにも最上川にふさわしい美しい言葉である。古今和歌集には、「最上川のぼればくだる稲舟のいなにはあらずこの月ばかり」という歌が採録されている。「いなにはあらず」と言わんがために、「稲舟の」までを連ねているのである。いやじゃないんですよと言うこの言い回しを、山本健吉はまんざらではない媚態のように解説していたが、素人の私には、男に「いなにはあらず」と断定的に返しているところに、如何にも直裁で健康な恋の歌のようにも響くのである。明治時代の女流作家田沢稲舟は鶴岡の出身であるが、彼女の名がこの歌から取られていることは言うまでもなかろう。
バスが酒田に到着するまでは結構時間がかかったはずなのだが、途中のことは何も覚えていない。同行の方々とあれこれお喋りをしていたからである(笑)。開放的な気分がいつもの抑制を緩ませるのであろう。山居倉庫(この倉庫は、米どころ庄内のシンボルともなっている)の側にあるホテルに到着後、何人かで飲みに出掛けようということになったが、近くの小料理屋は予約で一杯であったり、倉庫内のレストランも台風の接近に備えて早々と店じまいしたこともあって、やむなくホテル内での夕食となった。山居倉庫の直ぐ近くに架かったなかなか立派な新内橋を渡って、町中まで出掛けた元気な人もいたようだが、もしも風雨が強まると帰りが大変になるかもしれないと思って、年寄りの私は自重することにした。調査旅行に連れてきてもらって、周りに迷惑は掛けられない。
心配された台風であったが、夜中にかなり激しい風雨をもたらしたものの、翌日には通り過ぎてしまい、一転して朝から汗ばむほどの陽気となった。こうなると、昨晩行けなかった倉庫内のレストランでの食事が気になり、その日の夜に年配のグループ7~8人で再度出掛けた。歴史を感じさせる古い倉庫を生かしたお洒落な作り、美味い魚と肉にしてはリーズナブルな値段、それにあれこれのお酒を飲み比べることもできて、満足してホテルに戻った。気心の知れた人たちとの遠慮のいらない楽しい会話が、座を盛り上げるスパイスとなったことは間違いなかろう。
美味しかったのは酒が入った夕食だけではなかった。この日は、後に触れる酒田市資料館と旧鐙屋を訪問後、昼にトンカツを食べることになっていた。私が老いを感じるようになったのは、頭が禿げてきたことももちろんあるが、それ以上に昼にカツ丼を食べる意欲が失せたこともあった(笑)。よく出掛けた大学の近くにある蕎麦屋にはカツ丼もあったが、昼にはそれが胃に重く感じられるようになったからである。そんなわけで、食べられるのかどうか心配しながら箸を付けたのだが、これが文句なく旨かった。苦もなく平らげてしまった(笑)。件の平尾さんは、平田牧場の豚肉についても詳しくて、あれこれと解説してくれた。有名な豚肉らしいが、私はそうしたところにはまるで無頓着な方なので、山形に来て初めて口にしたというわけである。
酒田市資料館にて
こんな話を続けていると食紀行になりそうな気配だし、そうなると宮嵜所長に迷惑をかけそうな気もするので(笑)、話を本題に戻そう。われわれが山形に来てまず最初に訪ねたのは、酒田市資料館である。1階には1976年の酒田の大火に関する展示があり、2階では酒田の古代から近代までの歴史を通覧できるようになっている。元々酒田市周辺は、日本海から内陸部への風の通り道となっており、酒田は「風の街」と言われたりもする。1976年10月29日のこの日も風が強くて、大火災となったのだという。
その酒田は、最上川の河口に位置していたために、江戸時代には西廻り航路の拠点の港として発展した。北前船の寄港地は各地でそれぞれ賑わいを見せたが、酒田のそれは格別で、「西の堺、東の酒田」と言われたほどだった。西廻り航路に加えて、最上川の舟運が繁栄をもたらし、日本海有数の港湾都市に発展したのである。諸国往還津(津とは港のこと)と称された所以である。米を運ぶ弁財船の帆柱が港に林立し、豪商たちが本町通りに居を構えた。この辺りの展開は、雄物川河口の土崎とよく似ている。ただ、酒田の歴史はかなり古く、すでに戦国時代には三十六人衆が合議によって町を支配する仕組みが出来上がっていたようであるから、その頃から自治都市的な性格を有していたのであろう。この辺りは堺とよく似ている。こうした合議制は江戸時代を通じて続くことになるが、この「大豪商集団」はすべて廻船問屋だったという。
酒田では、あれこれの関連資料を入手できたが、その中でもなかなか面白かったのはジュニア版の『酒田の歴史(改訂版)』(酒田市教育委員会、2015年)である。私などは酒田に関してはジュニアみたいなものだから、ちょうど手頃だということか(笑)。読み物としてもよくできているだけではなく、図版や資料がたくさん掲載されており、眺めているだけでも楽しい。あとがきによれば、初版は「1992年酒田開港500年記念の年に、中学生の皆さんに『すてきな贈り物』として、市長さんや教育委員会のはからいで作られました」とある。「すてきな贈り物」と書くセンスがなかなか素敵である。
それによると、「北前船とは、江戸時代中頃から明治中期まで蝦夷地(北海道)と上方(大阪)との間の商品流通に活躍した船のことである。多いのは北陸地方の船で、春に日用品を大阪で積み込み、航路沿いの各地の湊や酒田湊に寄って積荷を販売したり、寄港地の産物を買い入れて蝦夷地に向かった。蝦夷地では特産の海産物を買い込み、航路沿いの湊に寄港しては積荷の販売や産物を買い込んで大阪に帰るという、動くスーパーマーケットのような船で、蝦夷地と大阪だけでなく、それ以外の航路でも活躍していた。使用された船は日本海の荒波にも耐える弁財船(弁才船)であった。/その頃酒田では北前船と呼ばないですべて『大船』(おおふね)といっていた」と記されている。
北前船の時代に、その船を北前船と呼んでいたのは大阪や瀬戸内だけで、東北地方では弁財船の呼び名の方が一般的だったらしい。この船を庶民は千石船とも呼んだ。米を千石(1俵60㎏の米俵で2,500俵)以上も積むことができたからである。『酒田の歴史』には動くスーパーマーケットと書かれていたように(資料館の展示には「商売船」とあった)、北前船はたんなる運送業者ではなかった。先に『北前船寄港地ガイド』の著者として紹介した加藤貞仁には、『海の総合商社 北前船』(無明舎出版、2003年)という著作もあり、それを開くと北前船の全貌がよくわかる。
ところで余談になるが、この加藤は福島の出身で私が卒業した福島高校の後輩にあたる。現在は北前船の専門家として著名である。北前船の寄港地・船主集落が日本遺産に登録され、それの広がりを紹介するパンフレットを私は由利本荘で手に入れたが、その著者も加藤であった。彼は読売新聞の秋田支社に長らくいたこともあって、東北のことには詳しく、数多くの著作がある。博学多才の人なのであろう。私は、以前の加藤の著作である『ふくしま艶笑譚』(1997年)を読んだことがあるが、幼い頃に聞いたことのある方言が満載で、何とも懐かしかった。
鐙屋と『日本永代蔵』のこと
酒田の繁栄ぶりは、今に残る豪商たちの館にこそよく現れている。酒田市資料館を後にして我々が次に向かったのは、国の指定文化財ともなっている旧鐙屋(あぶみや)である。鐙屋は酒田を代表する廻船問屋で、江戸時代を通じて繁栄し、日本海海運に大きな役割を果たしたことで知られており、当然ながら、『酒田の歴史』にも詳しく紹介されている。もともとは姓を池田と言ったようだが、領主の最上義光から鐙屋の屋号を与えられてからは、鐙屋惣左衛門と称するようになったと言う。
また、当主は酒田三十六人衆の一人として町年寄役も務め、町政に参画していた。往時の屋敷は、本町通りから大工町通りにまで至るほど宏大だったようだが、現在公開されているのは、本町通りの居宅地側だけである。またこの家屋は、1845年の大火で被災した後に再建されたものであるという。杉の皮で葺いた屋根の上に石を置いた典型的な町屋造りで、その内部は、通り庭 (土間のこと)に面して、10部屋余りの座敷や板の間が並んでいる。
当時の鐙屋の繁栄ぶりは、井原西鶴が1688年に書いた『日本永代蔵』にも紹介されている。もっとも当の私は、そもそも『日本永代蔵』を開いたことさえなかったので、鐙屋を見学するまでそんなことを知るはずもなかった。だが知ってみると、いったいどんなふうに紹介されているのか確かめたくなった。いささか物好きの気もあるので、不勉強を埋め合わせるために、角川ソフィア文庫の『日本永代蔵』を購入して確認してみた。巻二に収められた五話のうちの最後に「舟人馬かた鐙屋の庭」のタイトルで鐙屋が登場する。
「北国の雪竿、毎年一丈三尺降らぬといふ事なし。神無月の初めより、山道を埋み、人馬の通ひ絶えて、明の年の涅槃の頃までは、おのづから精進して、塩鯖売の声をも聞かず、茎桶の用意、焚火をたのしみ、隣むかひも音信普通になりて、半年は何もせずに、明け暮れ煎じ茶にしておくりぬ。諸事をかねがねたくはへ置きし故に、渇命に及はざりき。かかる浦山へ馬の背ばかりにて荷物を取らば、万高直にして迷惑すべし。世に船程重宝なる物はなし。ここに坂田の町に、鐙屋といへる大問屋住みけるが、昔はわづかなる人宿せしに、その身才覚にて、近年次第に家栄え、諸国の客を引請け、北の国一番の米の買入れ、惣左衛門といふ名を知らざるはなし。表口三十間裏行六十五間を家藏に立てつづけ、台所の有様目を覚ましける。米・味噌出し入れの役人、焼木の請け取り、肴奉行・料理人、椀家具の部屋を預かり、菓子の捌き・たばこの役・茶の間の役・湯殿役、又は使ひ番の者も極め、商手代・内証手代、金銀の渡し役・入帳の付け手、諸事一人に一役づつ渡して、物の自由を調へける。亭主年中袴を着て、すこしも腰をのさず、内儀は、かるい衣装をして、居間を離れず、朝から晩まで笑ひ顔して、中々上方の問屋とは格別、人の機嫌をとり、身過を大事に掛けける。座敷数限りもなく、客一人に一間づつ渡しける」と記されている。酒田はこの頃は坂田と表記されていたようである。
この文庫の裏表紙には、『日本永代蔵』のキャッチコピーが載っている。それによれば、「本格的貨幣経済時代を迎えた江戸期前期の市井の人々の、金と物欲にまつわる悲喜劇を描く経済小説。舞台は日本全国に及び、商売成功の方法を述べた実用書の面もあわせもつ当時のベストセラー。成功談と失敗談の双方描きながら、金銀万能の世相を活写して、町人生活の諸相をあぶり出す傑作」とある。西鶴によれば、鐙屋の成功の秘訣はまずは本人の才覚であり、次いで一人一役の役割分担の徹底であり、そして笑顔を絶やさぬ応対ぶりだということになる。
鐙屋が『日本永代蔵』に登場することは、あちこちに紹介されているのであるが、西鶴が酒田にまで取材に来たとはどこにも書いていない。彼自身は大阪にいて、鐙屋をよく知る人物から聞いた話をもとに書いたのであろう。浮世草子の作者である西鶴は、読み物を書いているのだから、あまりディテールに拘る必要はないのだろう(笑)。要は、鐙屋はその彼が興味を持つほどの繁盛ぶりだったということである。
ところで、この鐙屋には各部屋に扁額が掛けられていた。相当の数である。まったく意味もわからずに眺めていたのだが,そのなかに「穆如清風」と書かれたものがあった。そこでもらったパンフレットによると、書家は日下部鳴鶴という人物で、「穆(ぼく)として清風の如し」と読む。人の気象の和らげることを、清風の和らげるに喩ふと書かれていた。穆という字は、ほんのりと和らぐとか、穏やかでつつしみ深いという意味であるが、年寄りはすべからくかくありたいものだと自戒しつつ、あらためて扁額をじっくりと眺めてきた。鳴鶴83歳の時の書だというが、字体もまた清風のような清々しさであった。
午後に米菓工場を見学した後、我々はのんびりと日和山公園を散策した。ここは、酒田の繁栄の歴史を示す多くの遺物が点在する歴史公園として知られている。西廻り航路の開発に多大な功績のあった河村瑞賢の堂々たる立像が建っていたし、その彼が完成させた「瑞賢蔵」と呼ばれた幕府専用の米倉の跡も記念碑として残されていた。この碑は、上から見ると「米」の字がかたどられており、そこからも、酒田の人々の米にかけた思いが伝わってくるようであった。この河村瑞賢は、土木家として幕府の公共事業に携わった人物であるが、人口の急増によって米の需要が増した江戸に、出羽の城米(年貢米のこと)を直送するために、幕府の命によって西廻り航路を開いたのである。酒田の繁栄は、彼の功績なしには語れないということなのだろう。
その他に、寄港する船の航海の安全を祈願して建てられた常夜燈や、かつてこの丘から船頭たちが日和や風の方向を確かめる際に使用したという方角石、明治に入って建てられた木造の六角灯台などもあった。さらには、庄内米を酒田港から江戸に運ぶために活躍した北前船(実物を二分の一に縮尺して再現したもの)が池に浮かんでいたし、文学の散歩道には、冒頭で紹介した芭蕉の句「暑き日を海にいれたり最上川」も碑となっていた。公園の高台から一望した日本海、台風一過の晴れ渡った蒼空、夏の終わりを告げるかのような柔らかな雲、目に眩しいほどの緑の芝生、それらのすべてに爽やかな旅情を感じた。そして、藤沢周平の『三屋清左衛門残日録』にある「日残リテ昏ルルニ未ダ遠シ」といった言葉を思い出していた。