晩夏の佐渡紀行(四)-描かれた佐渡を読む③-
「描かれた佐渡を読む」の最後となる3回目に取り上げるのは、長塚節と江口渙の二人である。時期は違うが二人とも佐渡に出掛けて同じタイトルのエッセーを書いている。そのエッセーを読んでみると、妙な共通点が目に付く。二人とも佐渡の女性に関心を寄せているからである。もっとも、女性に向ける眼差しは大分違ったものではあるのだが、それでも私には佐渡という地を知るうえで何やら興味深く感じられるのである。
●長塚節の場合-美人のいた佐渡-
まずは長塚節の場合である。彼は1907年に「佐渡が島」という紀行文を書いている。長塚節は小説『土』でも知られるアララギ派の歌人であるが、『日本近代文学大事典』によると、この「佐渡が島」という作品は写生文を得意とした彼の佳作の一つだという。ネットの「青空文庫」で読むことが出来るので、早速読んでみた。それによると、この文章は彼が相川や真野を経て小木に向かうところから書き始められ、小木から赤泊へ至り、そして赤泊から佐渡を離れ新潟の寺泊に着くところで閉じられている。
彼は、「佐渡は余がためには到底忘れられぬ愉快な境であつた」とか、佐渡は「到る所余がために裝飾されて居るかとも思はれる。外見は凡そ佐渡ほど寂びた所は少なからう。然しながら仔細に味はうて見ると余はまだ佐渡ほど美しい分子を有して居る所に逢うたことがない」とまで書いている。大変な好印象を抱いた旅だったのであろう。その理由は、読んでみるとすぐに分かる。最初の章には次のような文章がある。
小木の港へ辿りついたのは黄昏近くであつた。相川の町では木賃のやうな宿へ泊つて流石に懲り/″\したのであつたから此所では見掛の一番いゝ宿へ腰をおろした。女が表の二階へ案内する。軈てランプを點けて來る。室内が急に明るくなる。此宿はまだ建築して間もないと見えて木柱から疊から頗る清潔で心持がよい。掃除したランプのホヤが殊に目につく。女は更に茶を出して呉れる。氣がついて見ると此女は驚くばかりの美人であつたのだ。まだ二十には過ぎまいと思ふ。佐渡のやうな豫想外に淋しい島へ渡つてこんな美人に逢はうとは全く思も掛けぬ所であつた。美人といふ以外に此女を形容の仕樣はない。
節はこの女性にいたく惹かれたようで、次の章のタイトルはそのものずばりの「美人」となっている。余りにも分かり易すぎるタイトルではある(笑)。この女性は、あることを思いだして笑うのであるが、それを見て節は次のように書いている。さらに彼は、赤泊から寺泊に向かう船上でも彼女のことを想い出している。
余は思はず女を見ると女も同時に余を見た。見た目にはまだ笑を含んで居る。余等は二尺計に開けた雨戸の間から躰の擦れ合うた儘外を見て居たのである。向き合うて見るとあんまり近いので急に何だか面ぶせに感じたので余は視線を逸らして其口もとを見た。口には鮮かに紅がさしてある。余は此の如き場合の經驗を有して居らぬので只兀然として女のいふことを聞いて居るのである。女は只無邪氣に耻らふ所もないやうな態度である。それ丈余は更に平氣で居憎い氣持がした。
佐渡が島では小木の港で美人に逢うた。美人は鼠地へ金糸銀糸で刺繍つた牡丹の花である。さうして博勞の娘はつやゝかな著莪の葉へ干した染糸で刺繍つた莟でなければならぬ。美人は夜ちらりと見て朝は別れてしまつたので何といふ名かそれも知らぬ。宿屋の娘であつたか女中であつたかそれもしかとの判斷は出來ぬ。余は何故匆卒に其宿を立つてしまつたのであつたかとそれも分らぬ。毎日々々不快な宿を遁げるやうに立ち去るのが旅中幾十日の習慣になつて居たからであつたらう。然し兎にも角にも昨日の浦を見おろしながら美人と噺をした。其噺は飽氣なかつた。惜しいはかないやうな思が心の底に潛んで居る。牡丹の花のうらを返して見ると金糸銀糸は亂れて居る。余が美人を憶ふ時には心に幾分の亂を生ずる。其心の亂れは刺繍の金糸銀糸が亂れて居る如く只美しくあるべき筈の亂れである。余はかういふ想に耽りつゝ船が磯へ掻きあげられるまで荷物と草鞋とを手に提げたまゝ呆然として立つて居た。
旅すがらの美しい写生文も勿論いいのだが、それは直接「佐渡が島」に当たって味わってもらうことにして、私は節の女性に対する思いの深さの方に興味を覚えた。遠く佐渡まで旅に出たことが、そうした感傷を深くしたことは言うまでも無いが、この女性の存在無くして、彼の佐渡に対する好印象はなかったはずである。出会った人間によって旅の印象はかなり左右されるのであって、これはその好事例である(笑)。そんなことを書きながら、では自分はいったいどうなのであろうかなどと考えてみたが、同じだろうと思って苦笑した。
●江口渙の場合-過酷な労働と粗食の佐渡-
佐渡の女性に対する関心ということでは、同じ「佐渡ヶ島」というタイトルで江口渙が書いている紀行文も、取り上げておきたい。彼はプロレタリア文学の世界で著名な人物なので、女性に対する関心とは言っても長塚節とは大分違っている。当然であろう。『日本プロレタリア文学集』34巻はルポルタージュ集となっており、そこに収録された彼の作品を読むと、相川の金山で働く女性を次のように描いている箇所がある。
往来の真中で若い女が男にまじってしきりに鶴嘴をふるっている。その横を、多分上の飯場へでも運ぶのだろう。矢張、若い女が米俵を一俵ずつ背負って列をつくって通っていく。それがみんな日本人には珍しいほどの、素晴らしい体格の持主ばかりだ。『この女衆はみんなここから一里ほど北にある海府から来とるんですわ。海府の女衆は実に好く働きます。』
丈はみんな五尺三四寸はある。そして好く盛れ上った乳の形と、強く張り切った腰の線とが、ひろい肩と部厚な胸とにしっくり合って、全身から受ける感じがまさに若さと健康そのものである。その上、脛と腕とを長い紺の脚絆と手甲でかため、紺飛白(かすり)の筒袖を膝よりも短く着て、赤のまじった半幅帯をぎりっと締めたその上から、腰までしかない紺飛白の袖無しを分厚く着込んでいる様子は、働く婦人にしか見られない素朴な美しさが、如何にも力強く溢れていた。
だが、若い間の異常に過激な労働と粗食のために、これほどの体をしながら三十歳を超すともうめきめき衰えてしまうと聞かされた時には、その豊かな肉体から与えられた力強さと明るさとは、忽ち私の心から消えて、矢張、彼女達も、このままでは階級的制約の暗さから脱れることの出来ない宿命にあることを、考えざるを得なかった。
この作品は1934年に書かれているのだが、鉱山で働く女性たちの「素朴な美しさ」を奪っていく「過激な労働と粗食」に着目していて興味は尽きない。労働の世界に関しては、後でまた取り上げたいと思っているので、詳しい話はそちらに譲ることとして、ここでは、彼女達の若さを失わせる分岐点とされている30歳という年齢に関連して、次のことだけ紹介しておきたい。
江戸時代の水替え人夫たちが過酷な労働に従事していたことはよく知られているが、「金堀り大工」たちも烟毒と呼ばれた塵肺によって30歳ぐらいまでしか生きられなかったらしい。三浦豊彦の『労働観のクロニクル』((財)労働科学研究所出版部、1996年)は、佐渡奉行を務めたことのある川路聖謨(かわじ としあきら)の佐渡在勤中の日記に次のようなことが記されていることを紹介している。
当国は二十五歳に相成り男は賀の祝ひあり。厄年と申候にはあらず。以前は金堀大工に三十をこへ候もの稀也。よって二十五歳になれば、並みものゝ六十位のこゝろへにて歳のゐわいいたし候由、昔は金ほり計り也しが、今は一国なべてなす事と成りしと御目付役のもの申聞候。
つまり、佐渡では金堀大工は烟毒のために若死にして30歳を超える者は稀だったので、25歳になれば60歳にもなったようなもので、歳の祝いをするようになった。それがやがて佐渡一国の風習になったという話である。金山での労働がどれほど過酷なものであったかが分かろうというものである。