晩夏の佐渡紀行(八)-「佐渡国小木民俗博物館」と「白山丸」展示館から-

 宿根木では、民家の建て込んだ路地を徘徊しただけではなく、佐渡国小木民俗博物館とその隣に併設されている「白山丸」展示館も見学した。民俗博物館は、佐渡に縁の深い民俗学者である宮本常一の提案と奔走によって設立されたことで知られている。この建物は、1920(大正9)年に建てられた旧宿根木小学校を利用したとのことである。主に民俗資料が展示されており、南佐渡の漁業や懐昔の暮らしの道具など、その数は3万点にも達しているという。あれこれ眺めていると、昔懐かしい品々も数多くあって、幼い頃にタイムスリップしている自分を感じた。

 もっとも、3万点というのは展示されている数であって、蒐集されたものは5万点とも7万点ともいう。未だに全体の整理はついていないようで、すべてが展示されるところまでには至っていない。博物館の奥には別館が建てられていたのでついでに覗いてみたが、そこにも未整理の民俗資料が所狭しと置かれていた。なお、展示されているもののうち、南佐渡の漁撈用具1,293点と船大工道具1034点は、国の「重要有形民俗文化財」に指定されている。

 博物館に併設された展示館には、実物大の千石船「白山丸」が展示されていた。1858(安政5)年に宿根木で建造された「幸栄丸」を、当時の板図(いたずとは、木造建築の世界で古くから使われてきた設計図のこと)をもとに復元したものだという。これまでの調査旅行で縮尺された千石船は何度か見たことがあるが、この「白山丸」は日本初の完全に復元された原寸大の千石船であり、展示館でその威容を誇っていた。外観は勿論だが、見学者は船の内部にも入ってすべて見ることができる。年に一度、地元の人々の協力によって展示館から前の広場に引き出し、155畳の大きさの帆を張ってその全貌を展示しているのだという。

 博物館で入手した「白山丸」友の会によって作られた冊子『時代に帆を揚げて』(2004年)には、完成までの経緯について次のようなことが記されていた。興味深かったので紹介しておこう。なお、ここに出てくる水主は「かこ」と読み、「か」は梶「こ」は人の意味で、江戸時代には下級の船員を指していたようである。

 全国的にみると弁財船関連資料の保存されているところは少ないが、宿根木には残っていた。かつては、船主や船頭をやった家にはどこでも家ごとに仕切帳、造船資料、海難や航海文書など所有していた。それが船中、戦後の紙不足で便紙にしたり、新築などの機会に焼却している例が多い。

 宿根木は、弁財船の船主、船頭、水主(船員)など海運に従事した人たちだけでなく、船を造船、修理する船大工、鍛冶屋、桶屋、家大工などがいた総合海運業の村となっていたため、資料も多いはずだが、これらの資料は戦後、不用になって捨てられ捨てられ始めていた。処分がすすんだ最後のころ、緊急に集め大量に収集、保存できたのは宿根木小学校が廃校になり、この空き校舎を博物館にした林道明館長と中堀均さんがいたからであった。

 完成に至る間にはドラマティックな展開もあったようで、ある家の屋根裏からびっしりと並んだ船大工道具を発見したのは、宮本常一に連れられて民具と民家の調査に来ていた武蔵野美術大学の学生たちであったという。その家の主人は元船大工で、先の林、中堀両氏の良き理解者でもあり、千石船の復元の提唱者となったのだという。また、地元の有志が千石船の建造で知られた岩手県大船渡市を訪ねるのであるが、そこで「白山丸」建造の指揮をとることになる船大工の頭領と出会うことになった。こうして、1998年に千石船「白山丸」は完成するのである。

 宮本常一が民俗博物館の設立に尽力したことは、先にも触れたところであるが、宮本と佐渡との関わりはきわめて深いものがある。佐野眞一の『宮本常一が見た日本』(ちくま文庫、2010年)を広げると、「故郷の周防大島を除いて宮本に一番縁の深かった島は佐渡である」と書かれている。彼が初めて佐渡に渡ったのは1958年だとのことだが、その後の20年間に彼はこの島に30回以上も足を運んだのだという。大変な入れ込みようである。佐野によれば、「宮本が佐渡に残した仕事のうち代表的なものは、小木の小学校廃校跡を利用した佐渡国小木民俗博物館の設立と、羽茂における八珍柿の増産奨励の二つである」という。宮本の博物館に対する関心は、次のようなところにあったらしい。

 小木に民俗博物館をつくるのを急いだのは、一つには、京都の古物商たちが昭和30年頃から小木の町に入りこみ、旧家にある民具類を安い値段で片っ端から買い漁っていたことと、昭和30年代後半から40年代前半にかけて小木の町に新築ラッシュが起き、民具類が廃棄される可能性が高まっていたためだった。北前船の関係で小木には貴重な民具類がたくさん集まっていたが、それが裏目に出て小木の人びとは高価な古伊万里をネコのエサ皿に使うような暮らしを平気でしていた。しかし、もう一つの理由の方が宮本にとっては切実だった。宮本は民俗博物館をつくることで沈滞した小木の町の空気をなんとか打破しようと考えた。

 古い民具が家のどこにあるかを一番よく知っているのは家庭の主婦である。ところが主婦はその使い方を知らない。知っているのは老人だ。けれど老人にはそれを運搬するだけの体力がない。それを運ぶのは若者だ。民具をただ集めるだけならば骨董屋と同じだ。博物館づくりは老若男女の力を結集することだ。人びとの力を結集することによって、沈滞した地域に活力と自信を与えることができる。これが、宮本の博物館づくりの持論だった。宮本はこの持論をもって、小木じゅうをアジテートして歩いた。

 なかなか興味深い指摘である。博物館が出来上がるにあたっては、宮本を心の底から信奉する二人の人物、すなわち称光寺の住職であった林道明氏と町役場の職員だった中堀均氏の協力があった。林氏は宮本に会うなり、「聞けばどんなことでも答えられる宮本の該博な知識と、まったく偉ぶらない人柄にすっかり魅了された」らしい。中堀氏も「初対面ですっかり宮本の心酔者」となったと佐野は書いている。周りに心酔舎が現れるというところが、アジテーターのアジテーターたる所以なのであろう。そうした人と人との出会いが生み出すエネルギーが、佐渡国小木民俗博物館に結実していったのである。