晩夏の佐渡紀行(五)-金山の町相川を巡って- 

 途中で2回中断したが、再度「晩夏の佐渡紀行」に戻りたい。さまざまに描かれた佐渡については、江口渙が注目した鉱山で働く女性たちの話で終えることにして、ここからは現実の旅の話に戻ることにしよう。私が旅情を感じたのは、江口が触れていた金山の町相川であり、小木地区にある民俗博物館と千石船の集落宿根木である。まずは相川から取り上げてみよう。

 相川は、かつては新潟県の佐渡郡の一寒村に過ぎなかったようだが、江戸時代に入って金銀山で賑わいを見せ、ここに佐渡奉行所が置かれたことからもわかるように、佐渡の中心地となった。明治以降は、金を産出する鉱山の町としては勿論だが、それに加えて佐渡観光の町としても栄えることになった。しかしその後、行政区域としての相川町は2004年の佐渡全域の合併によって消滅し、現在は佐渡市の一部となっている。

 初期の鉱山集落は採掘場にほど近い山中に生まれ、それが上相川となる。それから間もない1603年(慶長8年)に、それまで島根の石見銀山を治めていた大久保長安が初代の代官(のちの佐渡奉行)に任命されるのだが、その彼は、相川で大規模な「町立て」(計画的な町づくりのことか)を行い、段丘の先端に奉行所を置き、鉱山と奉行所を結ぶ道路や港を整備する。その結果、道沿いには町家が所狭しと並び、大きな賑わいを見せることになる。これが下町、上町と呼ばれる地域である。

 鉱山での金の採掘が本格化するにともなって、各地から大勢の人が流入してきたため、17世紀前半の最盛期には相川の人口は5万人ほどにも達したらしい。当時国内有数の都市であった長崎に匹敵するような人口の規模だということである。こうして、寒村だった相川は大都市へと変貌していくのである。

 相川でわれわれを案内してくれたガイドの方の話にもあったが、相川は江戸時代の町作りが基礎となっているので、今でもあちこちに往時の名残を目にすることが出来るという。町並みを散策してもいたって静かな佇まいであるが、往時の繁栄を知ったうえで周りを眺めると、その栄枯盛衰のあまりの大きさに今更ながら驚かされる。その落差が佐渡を寂しい島と感じさせるのかもしれない。

 なお、金山の開発にともなって、島全体が江戸幕府の天領つまり直轄地となる。更に付け加えておけば、明治以降も採掘は続けられており、直径50mにも及ぶ巨大なシックナー(泥状の鉱石を水と砂に分離する装置)や東洋一の規模を誇った北沢浮遊選鉱場(浮遊剤を使用することによって金銀を浮かべて分離し、金銀の絞り滓からさらに金銀を回収する装置があった)、鉱石や石炭などの運搬のために用いられた大間港の築港、トロッコをはじめとする近代的な鉱業施設が導入されていった。その結果、1940年には佐渡の金銀山の歴史の中で最大となる年間1,537㎏の金が産出されることになる。

 佐渡の金銀山というと、何も知らない私などはついつい江戸時代の話として受け取りがちである。松本清張の「佐渡流人行」の影響などもあるのかもしれない。水替え人夫として使役するために佐渡に送り込まれた無宿人の話が、やけに印象深いからである。しかしながら、上記のような近代化遺産の数々を眺めていると、こちらにも深い郷愁を誘われることになる。

 江戸時代の話であれば歴史として受け止めているだけでいいのだが、近代化遺産となるとどうもそうはいかない。日本の近代化に大きな役割を果たしたものの、今はうち捨てられている施設を眺めていると、つい先だってのことのような気がして何とも切ない気分になる。絶好の撮影ポイントではあるのだろうが、浮き浮きした気分でカメラに向かう気にはなかなかなれないのである。

 筆者の手元には『ニッポン近代化遺産の旅』(朝日新聞社、2002年)と題した写真集があり、そこには「佐渡島の眠れる遺産」ということで、大間港の小さなトラス橋(三角形の部材を組み合わせた橋)の写真が掲載されている。実際に現地で眺めてきたので、それだけでも興味深かったが、注目したのはこの写真集の冒頭に置かれた「近代化遺産とは何か」というかなり長い論考である。筆者は、建築技術史専攻で当時国立科学博物館の研究室長であった清水敬一という人である。その彼が次のような味わい深い文章を書いている。

 人は、誇るべきなにかをもつことが必要だろう。人のみならず、国でも地域でも企業でも同じだ。近代化遺産は、激動の近代という時代を乗り越えてきた先人たちが残した遺産。たとえ国の文化財として水準に達していなくとも、地域なり企業なりにとっては、特別な思い入れや意味のある場合も多い。

 単なる老朽施設が歴史的な資産となり、訪れる人に感動を与えるなにものかをもつようになるのは、そこにまつわる「物語」が意識されたときなのである。近代化遺産は、このような意味から「地域あるいは市民の文化財」ということもできよう。この本では、日本に残る近代化遺産のなかから、主要なものを選んで、短い解説をつけた。もちろん近代化遺産は、ここにとりあげたものだけではない。およそ人の営みや生業(なりわい)が続いてきた場所にになら、どこにでもある。町を歩いているとき、ふと見かける古い工場や倉庫、鉄道施設、橋梁…これらも立派な近代化遺産なのである。

 「どこにでもある」近代化遺産にも着目した、妙に引き込まれる文章である。鉱山のその後についても一言触れておくと、1940年以降は徐々に採掘量が減少したため、1950年代前半には大規模な人員削減が行われ、家族を含めて約2,000人が島を離れることになったのだという。1970年からは「史跡佐渡金山」として観光地へと転換し、1989年にはついに休山となった。

 この「史跡佐渡金山」の世界遺産への登録を目指して、現在さまざまな活動が続けられているようだが、この辺りの話しについては、相川の近くにある市の施設「キラリウム佐渡」を訪問し、職員の方の話を詳しく伺って初めて知った。こうした試みが功を奏して、佐渡が更なる脚光を浴びることを願っている。

 ところで、先に井上靖に触れた箇所で、佐渡守と渾名された新潟日報の記者のことを紹介したが、佐渡守と呼んでもいい人は他にもいる。相川生まれの郷土史家であり、佐渡博物館の館長を務め、数多くの佐渡に関する著作でも知られる磯部欣三なども、そうした人物の一人であろう。佐渡について詳しく知ろうとした時には、彼の著作のお世話になるしかない。

 私はと言えば、興味を持って読めそうなものだけを手にしてみた。『佐渡歴史散歩 金山と流人の光と影』(創元社、1972年)と『佐渡金山』(中公文庫、1992年)と先に触れた『世阿弥配流』がそれである。読みやすいのではないかと思って気軽に手にしたのだが、案に相違してどれもこれもとにかく詳しいので、読むのにかなり難渋する。ガイドブックの体裁をとった『佐渡歴史散歩』でさえそうなのである。彼の佐渡に対する彼の思い入れの深さがひしひしと伝わってくる。

 私はと言えば、適当に斜め読みやつまみ読みしたいだけの人間なので、余りに詳細な事実の列挙に途中で音を上げたくなる。「木を見て森を見ず」という諺があるが、彼が詳細に調べ上げた木を追っているうちに、著作の本筋である森がどんなものなのかが分からなってくるのである。もしかしたら、郷土史家とか地方史家と呼ばれる人に見られる一つの特徴なのかもしれない。

 佐渡の金山について知りたければ、『佐渡金山』を紐解くしかないし、佐渡に流された世阿弥の佐渡での足跡を知りたければ、『世阿弥配流』を紐解くしかない。そう思って『佐渡金山』をぱらぱら眺めていて、次のようなことを知った。

 島送りが始まったのは田沼意次の時代であり、江戸幕府の崩壊までのおおよそ100年間に渡って続いたこと、鉱石を掘る大工や穿子(ほりこ)はある程度熟練した技術が必要であるが、地下の湧水を汲み上げる水替えであれば、腕力や体力さえあれば勤まるので、無宿者を水替人足に使役したこと、彼らははじめは江戸市中で捕縛された無宿者に限られていたが、後には長崎や大阪の天領地からも送られるようになり、その数は2,000人を超えたこと、100年間に2,000人だからそう多い数ではないが、この結果、常時200人近い水替人足を確保できることになったので、鉱山の経営には随分役だったというのである。

 更には、無宿人を流人なみに足かせや手鎖、腰紐を付けて目籠で送ったのかと言えば、見せしめにして「目懲り」の効果を考えたためらしいこと、それ故沿道の人々は無罪または軽罪の無宿人たちを「囚人」だと考えていたらしいこと、そうしたこともあって、ヤクザの「ドサ帰り」や芸能人の「ドサ廻り」といった言葉も、佐渡の逆さ言葉として生まれたらしいこと、そんなことも記されていた。

 手元にある『大辞林』には、「ドサ帰り」はないが「ドサ廻り」はあり、「①決まった劇場をもたず、もっぱら地方巡業をすること。また、その劇団。②盛り場などを歩き回る遊び人や与太者。地(じ)まわり。 〔「どさ」は地方・田舎の意、「さど」の倒語で、賭博の現行犯が佐渡に送られたことから、など諸説がある〕と書かれている。諸説があるので断定は出来ないが、佐渡は有力な語源の一つとのようなのである。雑知識のようなものではあろうが、そんなことも知ることになった。