晩夏の佐渡紀行(二)-描かれた佐渡を読む①-
「描かれた佐渡を読む」などと大層なタイトルを付けたが、ここで私が試みたいのは、佐渡に出掛けた文学者たちが、そこで何を体験し、何を感じ、何を思ったのかを紹介することである。前回の投稿の冒頭のところで、島への旅には特別の旅情が沸くのではないかと書いたが、その感じは誰しも同じであろう。歴史的な由緒のある島佐渡であれば尚更であるに違いない。だから、佐渡には一度は行ってみたい、行かねばならないといった気持に囚われて、多くの文学者たちが佐渡に向かったのではないかと思われる。
以下に取り上げるのは、佐渡に出掛けた、あるいは佐渡出身の文学者たちが記した紀行文であり、写生文であり、エッセーであり、著作である。もちろん全部など読めはしないから、私が目にして興味を持ったものだけをアトランダムに取り上げている。また、紹介している文章も、わずかの繋がりは意識しているとはいうものの、こちらもまた基本的にはアトランダムである(笑)。注目すべきは、彼らの佐渡の歩き方であり、そこから見えてくる彼らの旅の形である。今回取り上げたのは、太宰治と井上靖である。
●太宰治の場合-何もない寂しい佐渡-
さて、まずは根岸さんの話に出てきた太宰治の作品であるが、私も彼の「佐渡」(1941年)と題した小品には目を通しておいた。どこでその作品を知ったかというと、『ふるさと文学館』の第19巻(1994年、ぎょうせい)が新潟編となっており、そこに収録されていたからである。「佐渡」には読み始めるとすぐにこんな文章が登場する。
何しに佐渡へなど行くのだろう。自分にも、わからなかった。十六日に、新潟の高等学校で下手な講演をした。その翌日、この船に乗った。佐渡は、淋しいところだと聞いている。死ぬほど淋しいところだと聞いている。前から、気がかりになっていたのである。私には天国よりも、地獄のほうが気にかかる。(中略)新潟まで行くのならば、佐渡へも立ち寄ろう。立ち寄らなければならぬ。謂わば死に神の手招きに吸い寄せられるように、私は何の理由もなく、佐渡にひかれた。私は、たいへんおセンチなのかも知れない。死ぬほど淋しいところ。それが、よかった。お恥ずかしい事である。
「何しに佐渡へなど行くのだろう」と自問自答する太宰の姿勢は、最後まで変わらない。読み進めると、両津の旅館では以下のようなことを感じたと書かれているし、翌日出向いた相川でも、似たような描写が続く。
夜半、ふと眼がさめた。ああ、佐渡だ、と思った。波の音が、どぶんどぶんと聞える。遠い孤島の宿屋に、いま寝ているのだという感じがはっきり来た。眼が冴さえてしまって、なかなか眠られなかった。謂わば、「死ぬほど淋しいところ」の酷烈な孤独感をやっと捕えた。おいしいものではなかった。やりきれないものであった。けれども、これが欲しくて佐渡までやって来たのではないか。うんと味わえ。もっと味わえ。床の中で、眼をはっきり開いて、さまざまの事を考えた。自分の醜さを、捨てずに育てて行くより他は、無いと思った。障子が薄蒼くなって来る頃まで、眠らずにいた。
佐渡には何も無い。あるべき筈はないという事は、なんぼ愚かな私にでも、わかっていた。けれども、来て見ないうちは、気がかりなのだ。見物の心理とは、そんなものではなかろうか。大袈裟に飛躍すれば、この人生でさえも、そんなものだと言えるかも知れない。見てしまった空虚、見なかった焦躁不安、それだけの連続で、三十歳四十歳五十歳と、精一ぱいあくせく暮して、死ぬるのではなかろうか。私は、もうそろそろ佐渡をあきらめた。(中略)白昼の相川のまちは、人ひとり通らぬ。まちは知らぬ振りをしている。何しに来た、という顔をしている。ひっそりという感じでもない。がらんとしている。ここは見物に来るところでない。まちは私に見むきもせず、自分だけの生活をさっさとしている。私は、のそのそ歩いている自分を、いよいよ恥ずかしく思った。
こうした如何にも太宰らしい心象風景が連綿と描かれているのだが、「佐渡には何も無い」し、「死ぬほど淋しいところ」だと繰り返し書かれているようなエッセーを、佐渡の人は余り読みたくもなかろう。余計なお世話だと思ったかもしれない(笑)。旅館の女中や、夜に出掛けた料亭の女給にも好印象は抱かなかったようで、その所為か、文末には作者後記として「旅館、料亭の名前は、すべて変名を用いた」とわざわざ書かれている。何ともあしざまに書いたので、太宰もさすがに気になったのであろう(笑)。
太宰のことだから、もしも佐渡の女性に好印象を抱くことができたのであれば、印象はもう少し違ったものとなったのかもしれない。これは私の勝手な思い込みではあるのだが…。旅の印象は、出掛けた場所の風物や飲み食いしたものに大きく影響されるのは言うまでもなかろうが、土地の人の印象にも結構影響されるところがある。私なども、ちょっとした言葉の遣り取りに心が和むことがよくある。太宰のような寂しがり屋であれば、尚更であろう。
●井上靖の場合-難行苦行の佐渡-
先の『ふるさと文学館』の新潟編には、井上靖の「大佐渡小佐渡」も収録されている。この紀行文もなかなか面白かった。私はこれを『ふるさと文学館』でではなく、岩波書店の同時代ライブラリーの一冊に収められた彼の『日本紀行』(1993年)で読んだ。この紀行文は、彼が1953年に冬の佐渡を見るために出掛けた時のものである。同行したのは、評論家の福田恆存と文藝春秋社の社員である田川氏の3人である。
作家の書いた紀行文だから、当然ながらあちこちに井上の美意識にもとづく鋭い観察が散りばめられており、それはそれで面白いのであるが、私が出向きもしなかった場所について触れてもみても仕方がなかろう。それよりも、この紀行文の面白さはまったく別なところにある。
佐渡での彼らの案内人となったのは新潟日報の坂井という記者であるが、この記者がやたらに熱意溢れる精力的な人で、著名な井上や福田に佐渡の隠れた魅力を知らしめようと、目一杯あちこちを見て回ろうとするのである。佐度守とまで称された彼の性癖でもあるのだろう。そのために、一行はへとへとに疲れ果て、井上たちの旅は難行苦行の連続となる。雪まで降った寒い冬の佐渡で、朝から夜まで引っ張り回されたのだから、さぞかし大変なことであったろう(笑)。井上はこんなふうに書いている。
12時過ぎて坂井さんを玄関に送って行くと、まだ雪が降っている。「明日は、早く起きておいて下さいよ、でないと廻り切れない」坂井さんは言い残して出て行った。坂井さんは私たちにかまわず勝手にスケジュールを組んでいるらしい。(中略)「いずれにしても用心しなければ」スケジュールのことを心配しているのは田川君である。佐渡へ来たからにはどうしても見なければと言って、坂井さんの挙げてくれた箇所は相当な数に上っていたからである。後で新潟に帰って新聞社の若い記者たちに坂井さんのことを話すと、「あの人のことは坂井佐渡守と言っているんですよ」と言った。
そこ(正法寺)を出ると、みんな自動車になだれ込む。堪らなく寒い。(中略)私も田川君もひどく疲れている。水が靴に滲み込んで足指が感覚を失っている。(中略)両津の宿につくと、一同ぐったりする。同じようにぐったりしていても、坂井さんはあくまで坂井さんである。「じゃあ、ひと思いに出掛けましょう」決して自分のスケジュールを崩さない。
こうして井上だけが坂井さんに引き連れられて、さらにある人物を訪ねるために、懐中電灯を頼りに山道を歩くのである。何とも恐れ入った強行軍である。善意に溢れ過ぎた人の怖さであろう。私ならとうに音を上げている(笑)。坂井さんのような真面目な人はどこにでもおり、真面目であるが故に周りの誰も批判できないのである。それが困るのである。井上は、この「大佐渡小佐渡」が収録されている『日本紀行』の始めの方で、「『旅と人生』について」と題したエッセーを書いている。
旅の効用をただ一つあげよといわれれば、私は躊躇なしに、自分をひとりにすることができることだと思う。自分をひとりにするには旅が一番てっとりばやい。決まりきった生活の枠は取りはず、まったく違った時間が自分の周囲を流れ出す。道の風物人情が自分を取り巻き、しかも停滞することなしに次々と後方に移動してゆく。否が応でも旅行者はひとりにならねばならぬ。
彼は、「ひとりになって初めて人間はものを考える」のだと強調しているのだが、ここで考えるということは、勿論仕事の一部としての行為ではない。「仕事には無関係に、つまり考えなければならぬので考えるのではなく、もっと自由で、もっととりとめもなく、自分の心の中に現れてきたものを追うこと」が大事なのだが、「そうした時間を持てるのは、今や旅でしかなさそうだ」と彼は書いている。同感である。もしかしたら、取材を兼ねて出掛けた佐渡での苦い体験が、こうした認識を強めたのかもしれない(笑)。