晩夏の両毛紀行(十)-足尾銅山の光と影(下)-

 私の関心は、古河市兵衛よりも田中正造の方にあるのだが、彼についても教科書知識程度のことしか知らない。興味深い人物だとは思っていたが、詳しく知る機会がなかった。こんな機会を生かさない手はないと思ったので、岩宿で相澤忠洋を知るために『岩宿の発見』を読んだように、今回は名著の誉れ高い二冊を読んでみることにした。ひとつは「田中正造と足尾鉱毒事件」と副題が付いた城山三郎の『辛酸(しんさん)』(角川文庫、1979年)であり、もう一つは荒畑寒村の『谷中村滅亡史』(岩波文庫、1999年)である。

 前回のブログでも触れたところだが、田中正造の「生涯は江戸時代の義民と民権家との系譜関係を想像させる」との紹介が気になった。義民とは、民衆のめに我が身を犠牲にした者のことであり、とりわけ領主の非道に抵抗して一揆を指導し刑死した者を、義民(または義人)と呼ぶ。とくに江戸時代について言われるとのことである。明治期の自由民権運動のなかで義民の顕彰が盛んに行われたこともあって、先のような義民観が定着したらしい。義民と民権家はこのようにして繋がっており、民権家でもありその後地位も名誉も財産もそして夫婦の関係さえも擲って谷中(やなか)村の農民のために死力を尽くした田中正造などは、さしずめ明治期の義民のような存在であったのだろう。

 『岩宿の発見』は自分史であったが、城山三郎の『辛酸』は伝記文学であり、彼の「作家活動の礎となった記念碑的作品」(魚住昭の解説による)だということである。城山自身は、「わたしはこの材料と取り組んだことで、作家としてのこの上ない生きがいを感じ、また、絶え間なく鞭打たれつづける思いがした」と書いているが、確かにそう書くだけのことはある。そんなわけで、こちらも居住まいを正して読まざるを得なかったし、不撓不屈の精神で立ち上がる人々に鞭を打たれた。そこには、「死ねば明治の佐倉惣五郎になる」と周りから言われた話も登場する。

 ところで、この作品は偉人としての正造を讃仰しているだけの作品ではない。そこには「辛酸入佳境」(辛酸佳境に入る)という正造が好んで揮毫した漢詩の一節が何度も登場するのだが、その意味は複雑である。城山は、正造の秘書兼雑用係でもあった主人公の一青年の思いを、次のように書いている。「辛酸を神の恩寵と見、それに耐えることによろこびを感じたのか。それとも、佳境は辛酸を重ねた彼岸にこそあるというのか。あるいは、自他ともに破滅に巻きこむことに、破壊を好む人間の底深い欲望の満足があるというのだろうか。」死に際に残されたのは頭陀袋(ずだぶくろ)のみであり、中には鼻紙と聖書と石ころだけがはいっていたという。もう一つの寒村の作品だが、こちらは正造の依頼によって書かれたドキュメンタリーで、谷中村滅亡の惨状を後世に伝える作品となっている。以下に冒頭の一節のみ紹介しておく。

 谷中村の今日ある、けだし遠く因を鉱毒問題に発す。 見よ、明治十年政府の足尾銅山を古河市兵衛に貸与するや、 古河のこれを経営する、実に巨万の資本を投じ、精巧の機械を設けて採鉱に従事せり。爰(ここ)においてか銅の産出俄(にわか)に増加して、ほとんど鉱業界の面目を一新したりき。しかれども世人が、この表面の鴻益(こうえき)に歓呼喝栄しつゝありし時、何ぞ知らん、銅鉱より出づる悪水毒屑(どくせつ)は、山林濫伐に伴って起る洪水のために、澗谷(かんこく)を埋め、渓流に注ぎ、渡良瀬川の魚族を斃(たお)し、両岸の堰桶(せきひ)を通じて田圃に浸潤し、草木を枯らし、田園を荒廃せしめ、人は病むも医薬を求むるに術なく、児は胎むも空しく流産し、たまたま生るゝあるも含むところの母乳はこれ毒水。 あゝ昔は豊田千里と謡はれし関東の沃野、鶏犬の声絶えて、黄茅白葦徒らに浅く、終に一個蕭条索落たる荒野の原と化し終らんとは。

 私はこれまで古河市兵衛と渋沢栄一との関係について深くは知らなかったが、市兵衛のことを調べているうちにおおよそのところは分かってきた。ここにわざわざ書き記すことでもないのでその話は省略するが、高山憲行著の『日本の歴史と足尾銅山の光芒』(郁朋社、2015年)を読んでいたら、次のような栄一評が目に留まった。私がぼんやりと感じていた違和感がはっきりしたように思われたので、紹介しておくことにする。市兵衛といい栄一といい、その人間としての佇まいは、田中正造の対極にある人物なのであろう。なかなかに辛辣な人物評だが、当たらずとも遠からずといったところか。

 渋沢は、臨機応変に物事を考えるところがある。 渋沢というと、日本経済の理念を打ち立てた賢明にして堅実な人格者というイメージが強いが、初めから王道を歩いた人物ではない。出身の埼玉県の深谷にいた頃、血気にはやり、尊王攘夷を唱えて開国論者を敵視していた時代があったかと思えば、江戸に出て一ツ橋慶喜 後の十五代将軍慶喜に仕え、幕末維新をなんと留学先のフランスで過ごしている。フランスと言えば、幕末の日本にアメリカ同様、通商を持ちかけ、旧幕府軍と倒幕派の間を渡り歩き、あわよくば日本を植民地化しようと企んだ国である。その後渋沢は、首尾よく動乱の時代の惨禍を逃れ、新政府に呼ばれ大蔵省に出仕するという、幕末の志士と呼ばれた人たちから見れば、目敏い出世魚の典型のような立ち回りをしている。晩年の賢人的所為の数々は、様々な経験と自身の人間的成長が結実したものであり、青雲の志を一筋に貫いて生きた聖人君子ではない。

 ところで、足尾では、現在銅山とその関連施設を世界遺産に登録する動きが既に始まっている。栃木県が候補地として決めたのは2007年だということだから、それなりに準備は進んでいるのかもしれない。坑内観光の後土産物屋に立ち寄ったところ、坂本寛明という方が書かれた『みんなに役立つ足尾銅山の歴史』(2021年)と題した冊子が置かれていた。解説書はこれしか置いてなかったので購入しようかどうか迷っていたら、研究所として買い上げて資料として参加者に配布するとのこと。読んでみたところ、あれこれと気になる著作であった。

 足尾銅山が公害のイメージで捉えられていることに反発するあまり、「公害を止めたのも銅山」だと主張しており、ついでに日本人の道徳心の欠如を嘆いてもいる。古河市兵衛の名は登場するが、足尾鉱毒事件の話も田中正造の話もまったく登場していない。ポスターでは「近代化の光と影」と標榜しておいるにもかかわらず、影は消え去っているかのようだ。こうした冊子を並べている(あるいは、こうした冊子しか並べられていない)ようでは、世界遺産の登録への道のりは遠かろう。ネットで探しただけても、足尾を紹介する優れた冊子はすぐに見つかる。何とも残念な思いがした。

 そして、足尾にはもう一つの影も存在している。もらった観光ガイドマップを広げると気が付くことだが、わ鐵の原向駅の先を北上した小滝抗エリアには朝鮮人供養塔や中国人捕虜収容所跡や中国人殉難烈士慰霊碑がある。朝鮮人供養塔は正しくは足尾朝鮮人強制連行犠牲者追悼碑という。中国人殉難烈士慰霊碑は、閉山の年の1973年に日中友好協会を中心として建立され、碑には「太平洋戦争末期、中国から強制連行されて来た257名が、足尾銅山の労働に従事し109名が殉難した」と刻まれているとのこと。

 この問題に関しては、古庄正(こしょう・ただし)の『足尾銅山・朝鮮人強制連行と戦後処理』(創史社、2013年)という興味深い著作もある。いずれにしても、世界遺産への登録を目指すのであれば、凄惨を極めた足尾鉱毒事件の顛末は勿論のこと、中国人、朝鮮人の強制労働に関する歴史的事実を無視するわけにはいかないであろう。「近代化の光と影」などと言ったり書いたりすること自体は容易であろうが、両者の錯綜した内実を見極めることは、きわめて難しい作業となるのではなかろうか。「光」が眩しければ眩しいほど「影」は深さを増す。足尾銅山の歴史がわれわれに教えていることは、そのことのようにも思われた。

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2023/01/04)

冬景色三景(1)

 

冬景色三景(2)

 

冬景色三景(3)