晩夏の両毛紀行(八)-足尾銅山の光と影(上)-

 三日目は、先に触れた「日本絹の里」を午前中に訪ね、午後からは足尾銅山をめぐり、その後日光の中禅寺湖湖畔にある英国大使館別荘記念公園に向かった。なかなかタイトなスケジュールの一日であった。足尾でもらった観光ガイドマップには、足尾は「産業遺産と環境のまち」であり、「まち全体が博物館」だとあった。「足尾のまちを歩けば、『銅山のまち』として栄えた頃の面影がいたるところで見られます。まち全体が、日本の近代産業発祥の頃を物語る博物館なのです」というのである。銅山があっての足尾のまちであり、まち全体が銅山に依存して発展してきたということなのだろう。

 今回の実態調査にも前回同様高崎経済大学におられた大島登志彦さんが同行してくれ、ところどころでガイド役を買って出てくれた。それだけではなく、関連資料まで配付してもらった。そのなかに、彼の執筆による「足尾銅山・足尾町の歴史と産業遺産」というタイトルの論文があった。雑誌『地理』の2008年4月号に掲載されたものである。足尾という地の概要を知るうえで簡潔で要を得た論文だったので、ポイントを絞り加筆・修正して以下に紹介させていただく。

 足尾銅山は、江戸時代に開削され、その後明治から戦後の高度経済成長期まで、わが国における産業近代化の一翼を担ってきた。400年ほど続いた銅山であったが、1973年に閉山した。足尾には、産業近代化の足跡を示す多数の産業遺産が点在する。しかしその近代化によって、山々の荒廃が極度に進行し、そのうえ洪水時に鉱毒が渡良瀬川下流にまで流出したので、かつては「公害の原点」とまで称された場所である。しかしなから、近年は世界的に環境問題がクローズアップされるなかで、環境保全に向けた運動が盛んになっている。

 栃木県は、2007年に近代鉱工業の発展と負の遺産としての鉱毒被害の両面を併わせ持っていることを踏まえて、「足尾銅山 ー日本の近代化・産業化と公害対策の起点―」を、世界遺産の候補地として提案している。江戸時代には幕府直轄の銅山として繁栄した足尾銅山だが、明治に入ると 古河市兵衛に払い下げられ、古河鉱業の経営する足尾銅山と足尾製錬所が設立されている。当時国内には多数の銅山があったが、足尾は全国の銅生産量の40%以上を占め、一時は東洋一の産出量を誇ったのだという。また、銅は重要な輸出品であったので、とくに日清・日露戦争期に大増産されることになった。 その結果、足尾町自体も栄え、1916|年の人口は3万8,000人を超え、当時は栃木県では宇都宮や足利と並ぶ大都市に成長した。

 一方、製錬所が排出する亜硫酸ガスによって山々の緑は枯れ、渡良瀬川には汚染物質が流出して足尾鉱毒事件に発展した。製錬所が渓谷の合流部に位置し、渓谷内に煙が滞留しやすい地形だったことも、緑の破壊に拍車をかけたという。戦後の足尾は、鉱山の採掘量が伸び悩むなかで、町の人口も1945年には約2万人、銅山が閉山した73年には約1万人にまで減少した。そうしたなかで、輸入鉱石を増やすことによって銅の生産量を増やしたため、閉山後の80年頃には年間約4万トンに達してピークを迎えた。

 だが、製錬事業は内陸の足尾よりも鉱石の輸入港近くのほうが有利なため、古河鉱業は生産の主力を国内の臨海地域やフィリピンなどに移して、1988年には足尾での製錬を停止した。折しも、国鉄足尾線は翌年の89年にはわたらせ渓谷鉄道に移管された。足尾町の人口は、先のような事情もあって、その後急速に過疎化が進み、近年は3,000人を切るところまで減少している。 そして、2006年には日光市に合併され、かつての銅の町の面影は急速に失われてきている。

 以上が、大島さんの論文を下敷きにした足尾銅山および足尾町の盛衰に関する概況である。銅山の閉山にともなって人口が激減した場所は、きっと寂しいところに違いなかろうと思いながら、足尾に向かった。バスはわたらせ渓谷鉄道(観光パンフには「わ鐵」とあったので、以下それにならうことにする。鐵が旧字なのが印象的である)に沿いながら、霧雨のなか山の斜面のカーブした道を登っていく。深山幽谷とはまさにこのことか。

 雨に煙っていたために、残念ながら渓谷美を眺めるわけにはいかなかったが、もうしばらくすれば紅葉の季節を迎え、美しい秋景色が眼前に広がるのであろう。向かったのは足尾銅山観光通洞坑(つうどうこう)である。わ鐵には足尾駅の一つ手前に通洞という駅があり、目的地はその近くにある。ついでに書いておけば、通洞の次が足尾、そしてその次が終点の間藤(まとう)の駅となる。

 バスの走った道路は、昔は銅(あかがね)街道と呼ばれた道らしい。金はこがね、銀はしろがね、鉄はくろがねであり、銅はあかがねと読む。調べてみると、この街道は群馬県の伊勢崎市にある平塚と足尾とを結んでおり、近世以降足尾銅山から産出された銅を運搬するのに利用されたという。沢入(そうり)、花輪、大間々、大原、平塚には宿が置かれ、それぞれ宿場町として栄えたようだ。銅は平塚から船で利根川を下って江戸に送られていたのだが、明治以後は銅の搬出先が日光に移ったために、街道は衰微していくことになる。わ鐵の拠点の駅となる大間々には、大正や昭和初期の面影を色濃く残す町並みがあるようで、当時の銅蔵も残っているとのことである。

 このブログに、家人の母親が桐生の風呂屋の出だと書いたことがあるが、祖母は大間々の農家の出である。家人は幼い頃祖母に連れられて、大間々の祖母の実家に出掛けたことがあるらしい。実家が近付くにつれて祖母の足が速くなったと語っていた。祖母も生まれ故郷に久方ぶりに戻ってきて、嬉しかったのであろう。その時の光景が目に浮かぶようである。親戚の叔父の一人は足尾銅山で働いていたが、胸を患って亡くなったとも語っていた。長年鉱山労働に従事していて塵肺に冒されたのである。家人は、叔父が住んでいた足尾の社宅にも行ったことがあるとのことだった。

 ところで先の通洞坑であるが、通洞とは、抗口から水平に掘進された鉱山の主要な坑道のことであり、そこを通過しないとどこの坑道へも行けない中心的な坑道を言うとのこと。駅名や地名に通洞という名が残る場所は足尾以外にはないらしく、昔はこの近辺に社宅が建ち並び町の中心であったようだ。銅山の閉山後は足尾町によって坑内観光の施設として整備され、足尾を訪れた人は誰もが立ち寄る足尾観光の拠点となっている。

 地下の坑内を見学できるという物珍しさもあって、それなりに観光客はいるようである。我々が到着したときには、遠足に来た小学生が大勢いて賑やかであったので、私の寂しさも少し紛れた。ただぼんやりと待っていたら、昔二村一夫さんの『足尾暴動の史的分析』(東大出版会、1988年)という立派な著作の、さわりの部分だけを読んだことを急に思い出した。軍隊まで出動したこの暴動が起きたのは、1907(明治40)年のことである。

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2022/12/23)

足尾三景(1)

 

足尾三景(2)

 

足尾三景(3)