晩夏の両毛紀行(九)-足尾銅山の光と影(中)-
通洞坑の入口まではトロッコに乗らなければならないが、大勢の人数が乗れるわけではないので、しばらく待たされた。トロッコに乗車して地下に入るとすぐに坑口に着く。この通洞坑を歩いていくと、江戸時代から明治、大正、昭和と、それぞれの時代ごとに採掘の様子が変わっていくことがよく分かるような展示となっている。足尾銅山の歴史を学ぶコーナーもあった。 通洞だから他の坑道よりも当然広いはずだが、狭くて濡れた坑道を歩きながら、地中で働いていた人々の模型を見たり会話を聞いていると、鉱山で働く人の労働の厳しさがひしひしと伝わってくる。
坑道をすべて繋ぐと東京から博多にまで至ると言われるほどの日本最大の銅山であり、そしてまた鉱毒事件で知られた銅山でもあるのだが、通洞坑の観光だけでは足尾銅山の光と影は見えてはこない。観光施設としてはやむを得なのかもしれないが、その対照を見つめる視線の弱さが少しばかり気にはなった。坑道の出口には、「銅もありがとう、また銅ぞ」などと書かれた看板が架けられていた。知り合いのFさんは駄洒落が好きなことでよく知られているが、察するに足尾にも彼のような人物が銅もいるらしい(笑)。まあ銅でもいい話ではあるのだが…。
われわれは通洞坑に入って坑内の様子を眺めただけであったが、「まち全体が博物館」だと言われている足尾には、産業遺産が至る所に溢れている。それらの多くは、わ鐵の足尾駅の近辺や終点である間藤(まとう)駅からさらに奥に入ったところにあるようだ。今回は、時間の関係でそうしたところにまで足を延ばすことは出来なかったが、きっと興味深い場所に違いない。
銅は、採鉱、選鉱、製錬の生産工程を経て産出される。それらの工程を維持するための施設がまずもって大事なのは言うまでもない。そしてまた、生産基盤となる輸送、電力エネルギー、工業用水などを十分に確保できるような諸施設も整えられていくことになる。さらには、鉱山全体の管理・運営を担う経営分野の施設に加えて、社宅を始めとした働く人々の生活施設も不可欠となる。足尾銅山とは、それらのものをすべて備えた空間であり、典型的な一大鉱山町や鉱山集落であったのだろう。その特徴は、鉱山にすべてが依存しているために、閉山によって町や集落が一気に衰退していくところにあるようだ。
間藤駅の奥は本山(もとやま)坑エリアと呼ばれており、そこには多くの産業遺産がある。だがそれらの多くは非公開だとのこと。旧くなっているので、近づくと危険だということなのであろうか。仕方がないので写真で眺めるしかないのだが、廃墟と化した施設群はいささか不気味な感じがしないでもない。世の中には廃墟や遺構の探索に興味を持つ人々もいるようで(私もそんな人間の端くれにいる)、彼らが撮った写真を見ていると、栄華の夢が醸し出している寂しさや虚しさだけがひしひしと伝わってくる。こうした感覚が生まれてくるのは、もしかしたら、こちらが余所者として足尾を訪れ、部外者として表層を眺めて、勝手に感傷に浸っているだけだからなのかもしれない。
通洞坑の観光の際に、トロッコの待ち時間に小さな駅舎に貼られていたポスターを見るともなしに眺めた。全面に広がった夕焼けを背景にして、鉄橋を渡るわ鐵の電車が撮られており、あまりに素晴らしい写真の出来映えにうっとりと見とれた。しかしながら、それよりも大事だったのは、「近代化の光と影」と「足尾銅山を世界遺産に」の大きな文字が入ったポスターの方であったろう。日光市観光協会が作成したものである。
足尾銅山の光と影、ひいては日本の近代化の光と影を象徴する人物と言えば、古河市兵衛(1832~1903)と田中正造(1841~1913)をおいて他にない。正造は市兵衛よりも10年遅れて出生し、そして没している。この二人の人物に関しては山なす文献や資料があり、たくさんの研究がある。だから私のような門外漢が、ちょっと調べて何かを書いたとしても群盲象を評すようなことにしかならないはずである。仕方がないから、百科事典の人物紹介に世話になることにした。そこでは二人は次のように紹介されている。まずは古河市兵衛であるが、「幼時から立身出世の願望が強く」とか、「銅山王」とか、「晩年には足尾銅山鉱毒事件の発生などにより、彼の独裁は揺らぎ」などと書かれている。何ともユニークな記述で興味深い。
古河市兵衛。明治期の実業家、古河財閥の創始者。天保3年に京都岡崎の商人の次男に生まれる。幼時から立身出世の願望が強く、伯父を頼って出郷し盛岡の鴻池屋(こうのいけや)の手代となる。1858(安政5)年に小野組(おのぐみ)糸店の手代であった古河太郎左衛門の養子となり、古河市兵衛を名のる。その後小野組に勤め、幕末・維新期に生糸貿易に敏腕を振るうとともに、阿仁(あに)、院内など諸鉱山の経営にあたった。小野組破産にともない零落したが、渋沢栄一らの資金援助を得て鉱山業に乗り出し、1877(明治10)年にはそれまで活動の中心をなしてきた生糸取引業をやめ、鉱山経営に専念するようになった。
とくに足尾銅山の経営には力を注ぎ、大学出の新進技術者を多数採用して、大通洞の開削をはじめ水力発電所の建設やベッセマー精錬法の導入など鉱山技術の革新に努めた。この結果、買収時には廃山同然であった足尾は、1890年代には早くも全国第一の銅山にまで発展し、市兵衛も銅山王としての地位を築いた。さらに阿仁、院内などの金・銀・銅山および炭坑の経営にあたり、電気精銅所など関連事業へも進出した。晩年には足尾銅山鉱毒事件の発生などにより彼の独裁は揺らぎ、古河鉱業(現古河機械金属)事務所が設置されて経営方針も変化した。1903(明治36)年死去。
では田中正造の方はどうだろうか。彼は同じ百科事典で、以下のように紹介されている。ここで興味深いのは、最後に登場する「その生涯は江戸時代の義民と民権家との系譜関係を想像させる」との一文であろう。自由民権運動は、士族民権と呼ばれた士族中心の運動から、農民の地租軽減の要求とも結びついて、豪農や地主、商工業者が参加する豪農民権と呼ばれた運動に推移していくのであるが、そのメンタリティーは江戸時代の義民と相通ずるものがあると言いたいのであろうか。
田中正造。明治期の民権家、政党政治家、社会運動家。下野国安蘇郡小中村(栃木県佐野市小中町)の名主の家に出生。父は富蔵、母サキ。儒家赤尾小四郎の塾に学ぶ。維新後江刺県(岩手県)付属補などを経て、1878(明治11)年ごろから自由民権運動に参加。80(明治13)年栃木県会議員に当選。県民負担軽減、小学校教育充実などに取り組み、三島通庸県令とは特に激しく対立した。県会議長を経て第1回総選挙から6回連続衆院議員に当選、立憲改進党、進歩党の重鎮として議場で活躍。
1891(明治24)年頃から足尾鉱毒問題に関心を持ち、たびたび政府に質問書を提出。1896(明治29)年の渡良瀬川の大洪水を契機に鉱毒被害が深刻化すると、さらに関心を深めていったが、それとともに政界で孤立化した。1901(明治34)年12月に、第16議会開院式帰途の明治天皇に直訴を試みるも果たせず。以後も運動を続けたが貧窮の中で病死した。その生涯は江戸時代の義民と民権家との系譜関係を想像させる。
PHOTO ALBUM「裸木」(2022/12/30)
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