晩夏の両毛紀行(三)-田島弥平と尾高惇忠-

 参加者と待ち合わせたのは熊谷駅の側である。今回の参加者の中には、前回の実態調査に間際で不参加となったAさんに加えて、知り合いの若いBさんまで顔を出していたので、何やら愉しい旅になりそうな「悪い」予感がした(笑)。お調子者の私などは、いい気になって羽目を外しかねないからである。我々一行が、まず出向いたのは田島弥平旧宅である。田島弥平と聞いてすぐにピンとくる人は、世界遺産となった富岡製糸場関連の事情にかなり詳しい人であろう。

 遺産に登録されたのは、「富岡製糸場と絹産業遺産群」であって、製糸場をメインにしているとはいうものの、それだけではない。製糸場の他にに田島弥平旧宅と高山社跡と荒船風穴を加えたものが世界遺産を構成しているのである。前回の春の実態調査では、富岡製糸場を訪れたものそれ以外の所には行けなかった。そこで今回の訪問となったのである。

 旧宅は伊勢崎市の境島村にある。利根川の土手の側が駐車場となっており、その脇に案内所があった。そこでガイドの方の話を一通り聞いてから、田島弥平の旧宅に向かった。この日の気温は34度にもなったので、熊谷の暑さを直に体感するような思いだった。しばらくして目的地にたどり着いたが、大きな農家があるだけで、話を聞いていなければ遺産の遺産たるゆえんは分からない。案内所で入手したパンフレットをもとに紹介してみる。

 田島弥平旧宅がある島村は、江戸時代から蚕の卵 (蚕種) 製造の盛んな地域でした。田島弥平は良い蚕種ための養蚕法を研究、通風を重視した「清涼育」を大成し、1863 (文久3) 年に越屋根(こしやね)のある住居兼蚕室を完成しました。 弥平が著した『養蚕新論』、『続養蚕新論』によりこの構造は各地に広まり、日本の近代養蚕農家建築の原型となりました。また、弥平らは1879(明治12) 年から1882(明治15)年までイタリアに蚕種を運び、現地で直接販売 (直輸出)を行いました。 この際に西欧の文化と共に持ち帰った顕微鏡で弥平は蚕の病気の研究を行いました。 富岡製糸場が繭の改良運動を始めると、田島家は外国種や一代雑種の試験飼育に協力しました。

 生糸の話になると、繭や生糸のことだけ思い浮かべがちだが、いい繭を手に入れるためにはいい蚕が必要となる。蚕の卵である蚕種(さんしゅ)にも改良の努力が続けられていたのである。われわれは日本の近代養蚕農家の原型を目にしたわけだが、ここには弥平の血縁の方が現在も住んでおられるので、中までは入ることができなかった。しかし、外から見学しただけでもその特徴は目に付く。換気設備である越屋根 が付いた総二階建ての建物だからである。一階が母屋で二階が蚕室となっており、 通風をよくするために窓が多い越屋根が、棟全体にわたって造られている。母屋の二階で蚕が飼われていたのだから、それだけ大事にされていたということなのだろう。

 「上毛新聞」の8月2日号には弥平の生誕200年の記事が掲載されており、そこには「養蚕偉人」とあった。それだけ高い評価を受けているということなのだろう。先にも紹介したように、イタリアに蚕種を運んで現地で直接販売したというし、彼の地で顕微鏡を入手して蚕の病気の研究もしたようだから、すこぶる進取の気性に富んだ、そしてまたたいへん研究熱心な人物であったように思われる。

 見学に飽きた私は利根川を見てみたくなり、途中で一人先に戻って土手に上ってみた。河原があまりにも広く、川筋は先の方に少し見えただけだった。前回の実態調査の帰りに深谷に寄った私は、父と同じように利根川の土手に上ってみたかったが、深谷駅からは交通の便もなく断念した。そんな経緯があったものだから、土手から利根川を一望できて満足した。勝手に動いていたら、いつの間にか行方不明となった私を探すために、件のAさんから電話がかかってきた(笑)。

 次に向かったのは、田島弥平旧宅からさほど離れていない尾高惇忠(おだか・じゅんちゅう)の生家である。この場所は深谷市にある。惇忠は富岡製糸場の初代場長となったことで知られる人物であるが、彼についても一体どれだけの人が知っているのだろうか。ここで手にしたパンフレットによると、1830(天保元) 年に生まれた惇忠は、渋沢栄一の従兄にあたり、 栄一は少年時代からこの惇忠のもとに通って 論語をはじめ多くの学問を彼に学んだのだという。後世、 “藍香(尾高の号で「らんこう」)ありてこそ栄一あり” と称えられたらしい、吉田松陰の言葉として知られる知行合一(ちこうごういつ、真の知識は実践をともなうの意)の水戸学に精通し、栄一の人生に大きな影響を与えたようだ。

 明治に入ると、それまで尊皇攘夷の信奉者であった惇忠は、栄一の推薦もあって富岡製糸場の初代場長となり、日本の近代化の歴史にその名を刻むことになる。惇忠もそうだが、彼の娘で製糸場の伝習工女第一号となった勇(ゆう)もここで育っている。生家には彼女の写真も飾ってあった。彼は製糸場の開業にあたってその準備段階から重要な役割を果たしている。ブリュナとともに製糸場の建設に適した場所を探して富岡に定めるとともに、用地の買収などの実務を取り仕切ったほか、ブリュナが製糸器械の調達や指導役の技術者の選定などのために、一時フランスに帰国した際にも留守を預かり、その間に始まった製糸場建設の責任者として、大いに腕を振るった。

 よく知られているように、惇忠が直面した困難の一つが、工女を思うように集められなかったことである。国から布告を出し、県令から各地区の戸長にまで徹底したにもかかわらず、当初想定していた400人あまりの工女は、操業予定日までに半分も集めることができなかったという。ブリュナをはじめとしたフランス人が飲むワインが「人間の生き血」だと誤解され、富岡に若い女性を送ると生き血を吸われるという風評が流布したからだとはよく言われる話だが、もちろんそれだけではない。

 奉公ならともかく、若い女性を外国人が監督する工場の寄宿舎に入れるということに対する抵抗感の方がずっと大きかったのではあるまいか。10年前まではこの地方でも攘夷の嵐が吹き荒れており、惇忠などはその先頭に立っていたのである。 応募者の少なさに手を焼いた惇忠は、当時まだ14歳であった自分の娘の勇を率先して工女として富岡に連れて行くのである。このエピソードは、惇忠の苦悩の大きさともに彼の責任感の強さをよく表している。

 二人をめぐる物語は、植松三十里の『繭と絆』(文藝春秋、2015年)において小説仕立てで詳しく紹介されている。彼は、ブリュナらのフランス人指導者を帰国させたあとも場長の座にとどまり、製糸場の経営の立て直しに尽力したが、1876年に職を辞している。 赤字を解消するために、これまで年一回しか採れなかった繭を秋にも採る道筋をつけようとしたようだが、これが生糸の品質を落としたくない政府の方針に反するとして、条令違反で事実上解任されるのである。こうした事態を先導したのは、三代目の場長となった速水堅曹(はやみ・けんそう)であったようだ。惇忠は辞めてからは地元を離れ、製糸業に関わることはなかった。心中にはどのような思いが去来していたのであろうか。

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2022/11/18

 

利根川三景(1)(伊勢崎市近郊)

 

利根川三景(2)(伊勢崎市近郊)

 

利根川三景(3)(深谷市近郊)