早春の山陰紀行(一)-初めての山陰へ-

 今年の2月26日から3月1日にかけて、3泊4日で島根と鳥取に出掛けてきた。専修大学の人文科学研究所が主催した「島根・鳥取総合研究調査」に参加させてもらったのである。優良な漁港として知られる島根県の浜田や鳥取の砂丘に顔を出したことはあるが、いずれも昔々にちょっと覗いただけに過ぎないので、今回が初めての山陰行だと言ってもおかしくはない。映画『砂の器』には島根県の亀嵩(かめだけ)が登場するが、山間の静かで寂しい場所だった。私にとっては、それほど縁遠い場所だったのである。だから、物珍しさも手伝って今回の企画には初めから参加しようと思っていた。後期高齢者の好奇心とでも言えようか。

 今回のブログから、この調査旅行にまつわる話を数回にわたって綴る予定である。ブログのタイトルについては、少しばかり頭を悩ました。途中「浅春の島根・鳥取紀行」に傾きかけたが、最終的に「早春の山陰紀行」というありきたりのタイトルに落ち着いた。早春も浅春も季節としては似たような時期を指しているから、どちらでもいいようなものだが、浅春だと浅春の候といった使い方で時候の挨拶のような気もしたのでやめることにした。早春は使い古しているので気にはなったが、収まりは良いのかも知れない。さらに、島根・鳥取では山陰という言葉の持つレトロスペクティブな響きが感じられないので、変えることにした。

 春が浅かったり早かったりするのがいつも以上に気になったが、それは、出掛ける4~5日前には日本海側が大雪に見舞われているとの報道があったからである。雪で滑って転倒したりしないように、履き物にも気を付けてほしいといったメールももらっていたので、急遽ゴム製のブーツを購入しそれを履いて出掛けることにした。ブーツを履いたり脱いだりするのは意外に面倒なのだが、それもやむを得ない。こちらは旅先で二度も転倒した経験があるので、身を守る準備をするのは当然の義務であろう。同行の方々に迷惑は掛けられない。

 今回もいつものように荷物を最小限にした旅装で出掛けたが、少しだけ変えたことがある。スマホとカメラを同時に充電できるモバイルバッテリーや予備のカメラ用電池やSDカードを持参したことである。ここからも分かるように、今回の調査旅行では最初から写真をたくさん撮影するつもりだった。訪問先を記した旅程表には、石見、出雲、松江、大山、境港とあったので、写真心がくすぐられるに違いないと思われたからである。調査旅行から帰宅して撮った枚数を数えてみたら、何と600枚近くにもなっていた。よくぞ撮ったものである。

 何故そんなにたくさんの写真を撮ったのか。それには訳がある。知り合いのAさんと昨年末に新宿で飲み食いしたが、その際たまたま写真の話となり、些か奇妙なタイトルの本を読むように勧められたからである。それは、幡野広志という写真家の『うまくてダメな写真とヘタだけどいい写真』(ポプラ社、2023年)という本である。確かに気になるタイトルではある。いつもつまみ読みしかしない私ではあるが、次のような指摘だけは強く印象に残った。それは、素人の写真愛好家の写真が今一つなのは、撮る写真の枚数が余りにも少なすぎるからである、という一文である。納得できるような写真は、たくさん撮らなければ生まれようがないということなのだろう。今回はその指摘を実践してみようと思ったのである。

 今回の調査旅行の集合場所は出雲空港であり、集合時間までに昼食を済ませておくようにとの指示だった。出雲空港は愛称出雲縁結び空港と言うらしいが(因みに、帰路の際に利用した米子空港は米子鬼太郎空港だった)、如何にも軽薄である。年寄りの私にはまったく興味がない。同行のFさん、Hさんと3人で空港内の蕎麦屋で割子そばを食べた。出雲蕎麦は日本三大蕎麦(他の二つは長野の戸隠蕎麦と岩手のわんこ蕎麦)のひとつだということだが、それまでまったく知らなかった。

 江戸時代の初期に、信州信濃の松本藩から出雲の松江に移り、出雲の松江藩の初代藩主となった松平直政が蕎麦職人を連れてきたことによって出雲地方に蕎麦が広まったとのことであった。その気になってバスの車窓から眺めていると、確かに蕎麦屋の看板が多い。旧暦では10月は神無月だが、出雲地方では全国から神々が集まってくるので神在月(かみありづき)と呼んでいるとのこと。この神在月に行われる「神在祭」では、神社の周りに屋台の蕎麦屋が立ち並んだらしい。

 出雲空港からまず最初に向かったのは、世界遺産に登録されてよく知られるようになった石見銀山の世界遺産センターである。太田市の大森町にあり、空港からバスで西に1時間ほどの距離である。石見銀山は2007年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されたから、今ではよく知られた場所となり観光客も集まるようになったが、それまではほとんど無名に近い場所だったのではないか。勿論この私も何も知らなかった。

 市街地には雪の名残などまったく見えなかったが、バスが山間(やまあい)の道を走り始めると、両脇にはしっかりと雪が残っていた。そんな残り雪を車窓から眺めていると、改めて遠くまで来たことが実感された。石見と書いて「いわみ」と読む。旧国名では石州(せきしゅう)とも呼ばれる。石見で思い出されるのは、「石見人森林太郎」としてこの世を去った、津和野出身の森鴎外のことである。

 

 

 

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