早春の台湾感傷紀行(八)-牡丹社事件の顛末から-

 恒春から屏東に向かう途中、「牡丹社事件祈念公園」に立ち寄った。私は恒春古城で転倒したばかりだったこともあって、この公園をしっかりと見て廻るだけの余裕がなくなっていた。帰国してこのブログを書き始めたところ、牡丹社事件が台湾出兵や琉球処分をもたらした、きわめて重要な事件であったことを初めて知ることになった。映画『セデック・バレ』で描かれた霧社事件(1930年)だけではなくこの牡丹社事件についてもさまざまな研究が積み重ねられているので、これまで不勉強だった私がこの間の俄勉強で知ったことを偉そうに書く気など毛頭ない。ただ感じたこと整理してみるだけである。

 この事件の発端は、1871(明治4)年に発生した船の遭難事故である。沖縄本島の首里へ年貢を運んだ八重山と宮古の4隻の船のうちの1隻が、その帰路に台風に遭って台湾の近海で遭難するのである。69人の乗組員のうちの3名が溺死し、残りの人員は台湾の東南海岸に漂着した。山中をさまよった彼らは、牡丹社(社は集落のことである)の原住民族であるパイワン族に助けを求めたようだ。しかしながら、意思疎通を図ることが叶わずパイワン族に拉致されてしまう。遭難者たちは貴重な食料を与えられたにも拘わらず、首狩りの恐怖に駆られたために隙を見て集落から脱出する。パイワン族はこれをスパイによる敵対行為と見なして、捕らえた54名を斬首した。残りの12名は漢人の移住者に助けられて、中国福建省の福州経由で宮古島へと送り返されたのだという。

 救助を求めた船員たちがパイワン族から斬首によって殺害されたということで、政府も国民も新聞もともに憤激して大いに興奮したはずである。この事件を受けて、明治政府は清に対して抗議し賠償を要求した。しかしながら、清は責任を取ろうとはしなかったし、それどころか琉球はもともと清の支配下にあるので、明治政府の主張は内政干渉にあたるとの立場だった。さらに、パイワン族のような清の支配に服しない生蕃は「化外(けがい)の民」なので、賠償要求に応じるつもりはないと主張したのである。

 当時の琉球王国は、特殊で複雑なな立場に置かれていた。というのは、日本と清がともに領有を主張していたからである。琉球王国は、薩摩藩と朝貢関係を結んでいただけではなく、中国とも朝貢関係を続けていた。いわゆる「日支両属」だったのである。明治維新後には、廃藩置県(琉球は当面鹿児島県の管轄とされた)が行われただけでなく、国民国家の形成のために国境の確定が重要な課題として浮かび上がっていた。その際に問題となったのが先のような立場にあった琉球王国だった。そうした状況下で起こったのが牡丹社事件である。政府は、この機に乗じて琉球王国と清との朝貢関係を断絶させ、薩摩に属していた琉球王国を日本の完全な統治下に置くことを模索し始めた。

 こうした動きが急がれたのは、先の殺害事件に対する報復措置として、台湾への出兵を主張する議論が急速に高まっていたからである。しかしながら、殺害事件を大義名分として台湾に出兵するためには、少なくとも琉球が日本の統治下にあることを内外に公言できるだけの現実的な根拠を確立しておかなければならない。明治政府はこの事件を琉球の帰属問題に利用しようと考えたようである。そのうえで、不平士族の不穏な動きを外にむけて発散させるためにも、台湾出兵に活路を求めていくのである。

 そこで明治政府は、殺害された琉球人は日本国民であり、生蕃に対して清朝が処罰できないと言うのであれば自ら討伐すると主張して、1874年5月、陸軍中将西郷従道(さいごう・つぐみち、隆盛の弟)の指揮の下に、3,600名にも及ぶ警察官と軍人を台湾に派遣した。近代兵器で武装した日本側は、牡丹社の頭領親子を殺害して戦闘では圧倒したものの、マラリアで561名が死亡するという事態に見舞われたため、制圧後は早期の撤退を望んでいたと言われる。これに対して清は、日清修好条規に定める領土の相互不可侵条項目に反するとして日本に抗議したが、当時は洋務運動が進行中で海軍の装備が未だ近代化されていないという事情もあって、開戦に踏み切ることはできなかったようだ。

 双方の思惑が交錯するなかで、清国はやむなく日本の出兵を「義挙」と認めて賠償金を50万両を支払い、日本は台湾に対する清の統治を認めて撤退することになった。その和解書の文面には「台湾の生蕃かつて、日本国臣民らに対して妄りに害を加え」という一文が挿入されていたので、明治政府は清が琉球を日本の一部であると認めたものと解釈して、武力で恫喝しつつ琉球王国の併合を推進することになるのである。いわゆる琉球処分である。

 日本の台湾出兵は「征台の役」ともいわれ、近代日本の最初の海外出兵であった。当時日本では、西郷隆盛らが朝鮮半島への出兵を主張して盛んに征韓論を唱えていたが、大久保利通らの政府首脳は内治優先を主張して鋭く対立していた。しかしながら、こと台湾に対しては内治派の大久保らも出兵を推進していたことからみると、明治政府の基本姿勢はすべての外征を否定するようなものではなかったのであろう。いや、さまざまな機会を捉えて膨張主義的な指向を強めていたのではあるまいか。司馬遼太郎は、先の『台湾紀行』で以下のように述べている。

 近代国家である手はじめは、国家の領土を、 アジア的「版図」の概念から脱して、西洋式の領土として明確にすることだった。ただし、国際法など法知識については、明治初期政権は、御雇外国人から借りた。たとえば琉球は、両属(清の版図と日本の版図)だった。たまたま明治4(1871)年、琉球国の島民66人が台湾の東南海岸に漂着しそのうち54人が山地人に殺された。山地人は、西海岸の漢人だとおもったという。

 日本はあざやかすぎるほどの手を打った。まずその翌明治5年9月、琉球王国を琉球藩にし、国内の一藩とした。清はのどかにもこれに対し、抗議を申し入れなかった。殺された琉球の島民は、日本人になった。 この基礎の上で、使者を北京に送り、清朝に抗議した。清側は口頭でもって、「台湾の蕃民は化外の者で、清国の政教はかれらに及ばない」と答弁した。日本はその後、一貫してこの口頭答弁を基礎とし、台湾東半分は無主の地であるという解釈をとった。その後、清国は表現を変えた。 両国のあいだで水掛け論がかさねられた。この時期、明治維新の主勢力だった旧薩摩藩(鹿児島県)が、新政府に不満で、半独立を維持し、他の府県の不平士族とともにいつ暴発するか、きわどい状態にあった。日本政府は、国内に充満したガスを抜くべく、まったく内政的配慮から、兵を台湾部に出した。明治7 (1874)年のことである。

 清国は、おおらかだった。ほどなく、清国はこの討伐費を日本に支払ったのである。支払うことによって、清国は台湾東部が自国領であることを証拠づけた。さらに清国は台湾が自国領であることを明確にするために、明治18(1885)年、台湾を台湾省に昇格した。つまり、〝国内〟になった。〝国内〟は、10年つづいた。明治27,8(1894,95)年、日清戦争がおこり、下関条約の結果、台湾は日本領になった。

 相変わらずのことではあるが、何とも「おおらか」で「あざやかすぎる」ほどの描きっぷりである(笑)。この機会に、ガイドブックに載っていた台湾の南端部の地図を眺めていたら、恒春の近くには牡丹の地名はもちろん、琉球藩民の墓や日軍討蕃軍本営地記念碑、や石門(せきもん)古戦場跡などが載っていた。この石門で日本軍とパイワン族が交戦したのである。牡丹社事件のことを知らなければ、古戦場の跡地を見ても何も思うことはなかったかもしれないが、知ってみると事件後の日本の行方を暗示しているようにも思われなくはない。恒春古城は、日本からの防衛の必要性を感じた清が、この事件の後に完成させたものだという。

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2024/05/24

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