早春の台湾感傷紀行(五)-日本統治下の史跡を巡って(下)-

 今回、台湾の東部を北から南に移動しながら「植民地的近代化」の史跡眺めてきたのだが、ここでそれらの史跡について簡単ながら触れておこう。先ずは宜蘭である。宜蘭には2泊したが、初日は1919年に開業した宜蘭駅を眺めた後、近くの中山公園に出向いた。この公園が設置されたのは1909年のことで、園内には、日本の統治時代の1926年に建てられた忠霊塔や日本軍の通信所跡やタイヤル族が首狩りの慣習を絶ったことを記念した獻馘(けんかく)碑があった。やはり気になるのは1909年建立のこの獻馘碑であろう。獻はたてまつる、馘は切り取るの意である。しばらく前まで日本でも従業員を解雇することを馘首と言っていた。

 台湾に出掛ける前に、写真集である『昭和史』の別巻Ⅰ「日本植民地史」(毎日新聞社、1985年)を眺めたところ、そこに生首の写真が2葉あった。一つは、「日本統治に反抗するサラマオ蕃の討伐に パーラン社の壮丁たちも参加 日本の軍・警察関係者と勝利の記念撮影を行った 壮丁たちの前に並ぶのは戦果の生首」との説明があり、もう一つは、「戦果の生首を提げて踊り、男たちの武勇をたたえる霧社蕃パーラン社の女性たち」とある。サラマオ蕃もパーラン社も同じタイヤル族に属している。彼らはむやみやたらに首狩りをしたわけではないから、残酷な殺し方だと単純に非難する気はないが、ずらりと並んだ生首を見るとやはりある種異様な感に打たれる。こうした首狩りのことを、台湾の漢民族や日本人は出草(しゅっそう)と呼んだ。草むらに隠れ、背後から襲撃して頭部を切断したからである。ちょっとおとなしすぎる表現のような気もしないではないのだが…。

 次に出向いたのは、設置記念館である。初代の宜蘭長官であった西郷菊次郎(西郷隆盛の長男)により1906年に建設された、和洋折様式の建築物である。 以後長官の官邸として使われ、1997年に記念館として公開された。 明治時代の木造家屋が美しく修復され、畳敷きの部屋を巡りながら、200年に及ぶ宜蘭の歴史資料を眺めることができる。 屋敷を囲む日本庭園には、樹齢100年になるクスノキの大木が葉を茂らせていた。周辺はかつて南門地区と呼ばれ官舎が多かった所だとのことであった。ハーモニカのおじさんがいたのはここである。

 その後宜蘭酒廠に出向いた。ここが操業を開始したのは1909年だから、長い伝統と歴史をもつ酒工場であり、今なお現役で稼働しているとのことであった。工場の一部が開放されており、 酒造の歴史を展示した甲子蘭酒文物館や、発酵の仕組みを学べる台湾紅麹館などを見学できる。工場内には日本統治時代の建築物も多い。 私は紅露酒についてそれほどの関心を抱かなかったので、敷地内の古い建物ばかりを眺めてきた。サキソフォンのおじさんがいたのはここである。

 台湾4日目となる花蓮では、午前中に文化創意産業園区や松園別館を廻り、午後に豊田移民村と林田移民村を廻った。1913年創業の花蓮酒廠の跡地に設立されたのが、文化創意産業園區であり、現在は総合文化スペースとなっている。広大な敷地に工場関連の建物が並び、 コンサートホールや小劇場、展示会場として利用されているとのことである。こちらが興味を持ったのは、原料倉庫として使われてきた日本式の檜造りの建物群であり、それらは今に残る貴重な建築遺産だと言えるだろう。昔どこかで見たことがあるような妙に懐かしい感覚に襲われ、写真心がいたくくすぐられた。

 もう一つの松園別館 であるが、ここは花蓮港を一望できる高台に立った建築物である。松の大木が何本もあったから、その名が付いたのであろう。日本統治時代は軍関連の施設だったとのことで、 前身は1943年に建てられた花蓮港兵事部である。軍事施設とは言っても、日本軍の高級将校たちがサロンを兼ねた司令部として使っていた洋風の建物なので、戦争の面影はほとんど感じない。松林の中をゆったりとした風がながれ、この小高い丘からは花蓮の港や街並みが遠望された。花蓮といった美しい名を持った町に相応しい場所へと変貌しているのであろう。花蓮県にはもともと多くの原住民が住んでおり、花蓮はサキザヤ族の言葉でもともとは「真の人」という意味だとのこと。

 日本統治時代、台湾総督府によって1909年に官営の移民事業が始まり、花蓮や台東の一帯で大規模な移民が行われた。花蓮県では1910年に最初の移民村である吉野村が開かれ、その後、豊田、林田、瑞穂と続き、台東県の鹿野などにも開かれた。こうして計10箇所あまりのところに開拓移民村が開村したのである。そこには、北海道や四国などの農村地帯から日本人が入植してきた。その結果、当時未開の地が多かった台湾の東部において、農業発展の基礎が築かれていくのである。マラリアや台風に加えて先住民との抗争もあり、離村した開拓民もかなりの数に上ったという。残された建築物や文物などからは往時の暮らしを垣間見ることができる。どんな様子だったのであろうか。

 移民村の当時の状況を紹介してみると、村の多くの道路は碁盤の目状であったし、各家の土地は正方形だったという。農業および家政技術の指導を行う移民村指導所や、治安を維持する派出所、医療サービスを行う医療所などもあった。また、集落を鎮護する存在としての神社や、子弟の教育を行う小学校も設けられており、当時の日本の移民政策が厳密に行われていたことがよくわかる。豊田は移民村の中でも比較的保存状態が良好であり、小学校の講堂や中山路と民権路の交差点にある鳥居など、日本時代の建築物が残っている。私たちも、現在は碧蓮寺となっている豊田神社などを眺めてきた。

 この豊田神社について一言触れておこう。神社が創建されたのは1915(大正4)年のことである。豊田村にはいくつかの集落が集まっており、神社は集落のはずれに位置していた。 碧蓮寺の境内には石灯籠が残っているが、数年前に地元有志たちによって復元されたものだという。また、開村30周年記念碑も残っている。これは第18代の台湾総督であった長谷川清が揮毫したもので、建立は1942(昭和17)年一月。高さが170センチもある大きな石碑である。現在の寺院は神社を彷彿させる風貌ではないが、それでも神社時代の狛犬が残っていた。余りにも静かな時間の流れの中で、記念碑も狛犬もゆっくりと朽ち果てていくのであろう。新天地での成功を夢見た人々を偲んだ。

 では日本から台湾に移住してきたのはどんな人々で、そこにはどのような事情があったのであろうか。送出地と移民村の連関について、 徳島県の事例を中心に考察した論考によれば、台湾への移民は、19世紀の後半から広がった日本国内での人口移動の延長線上に位置付けることができるとのことである。農村における過剰人口問題と土地不足が深刻だったからであろう。徳島県の場合で言えば、北海道への移民が全県に拡大し、人々の目は外界に向けられ始めたらしい。 日本最初の植民地である台湾への移民の募集に県民が呼応したのは、こうした下地が形成されていたからなのであろう。

   移住者は、当初出身県ごとに集落を形成したようだ。新天地の暮らしに不安を抱えていた人々にとっては、そうした繋がりが必要だったのであろう。生活が安定し、 次世代が成長していくなかで、 昭和10年代頃から、同郷者どうしの繋がりよりも村落としての繋がりが強まっていく。 ところが1945年の日本の敗戦によって、移民の多くは残留を希望したものの、全員日本に帰還せざるを得なくなった。日本人の開拓移民村は、ある日突然一挙に崩壊したのである。 土地や家屋はもちろん、これまでに築き上げてきたものをすべて失うことになったのだから、移民村における人々の動揺ぶりは相当なものだったらしい。花蓮の移民村の話ではないが、司馬遼太郎は『街道をゆく40 台湾紀行』(朝日文庫、2009年)のなかで、花蓮に向かう途中で同行の案内人から聞いた、以下のような話を書き留めている。その場所は台南市の新栄である。

 話は一転して、引揚げのときの場面になった。そのときは、着のみ着のままでした、とこの人はいう。当時、中華民国の命令によって、衣料は一人三着とかぎられていたのである(行李二個と持てるだけの手荷物、現金千円の持参が許された)。輸送の都合で、出発の日は順次決められていて、電蓄の奥さんは後発組になった。田中家は先発組で、後発の人達に見送られて新営駅に集合した。見送る人も見送られる人も、前途に不安があった。社会科学ふうにいうと、”日本帝国主義〟の決算の風景だった。しかし少年にとっては、貝が殻から身をもぎとられたように、学校や友達や近所という貝殻をうしなって、白い剝き身(むきみ)一つになったような心もとなさでいた。

 列車に乗りこみ、やがて車輛がきしんで動いたとたん、いままで見送りの群れのなかにいなかった電蓄の奥さんが、「タナカさぁん」と、駆けてくるのがみえた。準造氏の母親はあわてて車窓から手をさしだした。 電蓄の奥さんはその手をにぎり、にぎったままフォームの端まで駆けつづけた。そのあと、小学校六年生の準造氏は激しく泣き、一時間以上も泣いた。すべての日常が去った。電蓄の奥さんが少年の日常性の象徴だったかもしれず、彼女が遠くなったとき、自分の少年時代はおわった、とおもったそうである。

 5日目の台東では台東糖廠にも立ち寄った。1913年に設立された製糖工場の跡地だとのこと。製糖業の歴史はかなり古いようだが、日本の統治時代には、製糖業が台湾の基軸産業となるまでに発展した。この跡地は、現在歴史遺産の保存と文化の活性化を目的とした 「台東糖廠文創意産業園區」 となっている。敷地内には工場や鉄道、機関車、貨車などが保存されており、往時を偲ぶことができる。今は錆び付いてしまった鉄路の上を、サトウキビを満載した貨車が走っていたのであろう。倉庫などの建物は改装されてショップや工房やカフェなどが入居しているようだが、製糖工場の跡地が醸し出すノスタルジックな光景に心が奪われてしまった。

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2024/05/03 

台湾三景(1)

 

台湾三景(2)

 

台湾三景(3)