早春の北関東紀行(最終回)-長野原の八ッ場ダムから中之条の赤岩集落へ-

 草津の重監房資料館を後にした調査旅行の一行が次に向かったのは、長野原にある八ッ場ダムである。周知のように、「八ッ場」と書いて「やんば」と読ませるのだが、この読み方がとても珍しいのでいささか気になる。ネットで検索してみると、いくつかの説があるらしい。狭い谷に獲物を追い込んで矢を射かける場所である「矢場(やば)」が転じたという説。狩をする場所に8つの落とし穴があったことから、八つの穴場が元となったという説。川の流れが急な場所「谷場(やば)」が転じて「やんば」となったという説など。いずれにしても、吾妻(あがつま)渓谷を懐に抱いた山深い場所であったために命名されたことは間違いなかろう。

 上毛かるたでは「耶馬溪しのぐ吾妻峡」と詠まれているほどの名勝地に、巨大なダムが造られたのである。地元住民にとっては「驚天動地」、「寝耳に水」の計画だったから、いろいろあって当然であろう。それ故、八ッ場ダムの計画から完成に至るまでには、とんでもなく長い道のりがあった。その歴史を、群馬県のホームページにもとづいて整理してみると、次のようなことになる。最後に添えられていた年表を眺めていていささか奇異に映ったのは、1952(昭和27)年の「利根川改定修繕計画の一環として調査着手」から、1980年(昭和55)年に長野原町と吾妻町に「生活再建案」が提示されるまでの最も興味深いはずの約30年間が、まったくの空白となっていたことである。その訳については後で触れる。

 八ッ場ダムは、利根川の氾濫による洪水被害を防ぐとともに、首都圏の人たちの生活用水や工業用水を確保するため、昭和27年に建設省(現在の国土交通省)が、長野原町と東吾妻町の町境に計画したダムである。計画が発表された当初、「首都圏の人たちのために故郷が水没する」ことに地元住民の方々は納得できず、ダム建設に強く反対した。その後、賛成派と反対派に分かれ、町を二分するような深刻な問題となり、地元住民の方々は大変つらい思いをされた。昭和55年に群馬県が生活再建案を、平成2年には建設省と群馬県が地域居住計画を提示することで、地元住民の方々はダムの建設に向けた話し合いを始めることになった。

 苦渋の選択の末、平成4年に長野原町で平成7年には吾妻町(現東吾妻町)で「八ッ場ダム建設に係る基本協定書」が締結され、ダム建設事業が動き始めた。このとき既に、ダム建設構想から40年以上が経っていた。平成21年の政権交代で鳩山内閣が生まれ、前原国土交通大臣は突然八ッ場ダムの建設中止を明言した。これは、地元住民の意見、関係市町村、共同事業者の1都5県の意見を聞くことなく、国が一方的に判断したものである。国は、八ッ場ダムの建設中止を発表後、一切の予断を持たずに再検証を実施することを表明し、有識者の意見を十分に聞き、最終的には、その検証結果に沿って国土交通大臣が適切に判断することになった。

 平成23年に至って、野田内閣の前田国土交通大臣は、国交省政務三役会議において「八ッ場ダムの建設継続」を決定したことを発表した。また、同日に長野原町を訪問し、群馬県知事、長野原町長、東吾妻町長、地元住民らに「建設継続」を報告した。平成28年からコンクリートの打設が開始され、令和2年3月にダム本体は完成した。群馬県としては、生活再建事業の一日も早い完成に全力で取り組むとともに、地元の方々が、将来にわたり安心して生活が送れるよう、ダムやダム湖、各地域振興施設が連携した魅力ある地域づくりを支援していく。

 県のホームページには、以上のようなことが書かれている。いささか綺麗に纏められているような気がしないでもない。ダムの建設計画が明らかになってから、ほぼ70年後に完成したわけだが、これは人間の一生にも匹敵するような長さである。先に触れた空白の30年間に、「町を二分するような深刻な問題となり、地元住民の方々は大変つらい思いをされた」ということだが、当時を知る関係者はすでにほとんど亡くなっていることだろう。私が八ッ場ダムのことを知ったのは、「コンクリートから人へ」をマニフェストに掲げた民主党政権が誕生してからなので、それ以前の八ッ場ダム問題に関しては何も知らない。そんな不勉強な人間が、したり顔であれこれとわかったようなことを書くのもどうかと思うので、ほどほどにしておかなければならないだろう。

 ただ、一言だけ付け加えさせてもらうならば、民主党政権の誕生とダム建設中止の方針が、地元を混乱させたことばかりが浮き彫りになりがちだが、当初のダム建設計画の突然の発表が地元に大混乱と大騒動をもたらし、住民を翻弄し続けてきた元凶であることが、いつの間にかすっかり隠され忘れ去られてしまっている。70年近くもダムなしでやってきたのだから、いまさら造らなくてもいいではないかといった意見も十分にありうるし、「コンクリートから人へ」といったスローガンなどは今でも十分に通用するような気がしないでもない。今ならさしずめ「ビッグイベントから人へ」とでもなろうか。しかしながら、政権交代の前にダム建設のための下地は既に出来上がっていた。

 その下地がで出来上がるに当たっては、さまざまな興味深い人物が登場してうごめき、さまざまなそれこそなりふり構わぬ運動が展開され、補償金を巡ってさまざまな駆け引きが繰り広げられたようだ。不謹慎を承知で書けば、てんやわんやとでも評すべき事態が生まれたのである。その顛末については、嶋津暉之・清澤洋子著の『八ッ場ダム 過去、現在、そして未来』(岩波書店、2011年)の第2章「八ッ場ダム計画の歴史」が詳しい。あまりの面白さに、私は途中で本を閉じることができなくなったほどである。とりわけ興味深い人物として登場するのは、「川原湯天皇」とまで評された養寿館の主人萩原好夫の存在である。ついでに彼の著作『八ッ場ダムの闘い』(岩波書店、1996年)まで手にしてしまった。この本に序文を寄せた宇沢弘文は、建設官僚と闘い続けた彼のことを「昭和のドン・キホーテ」だと評している。私は反対運動のリアルな内幕を知りたかったのだが、残念ながらこの本はそうしたものではなかった。

 萩原は書いている、「それにしても長い先の見えないたたかいに地元住民は一人残らず疲れ果ててしまった」と。こうしてダムが完成するのである。ところで、先の著作は八ッ場ダムの完成前に出版されたものなので、完成後現地はどう変貌したのかよくは分からない。現在の様子を知りたくてネットで検索していたら、熱烈な鉄道ファンの方が川原湯(かわらゆ)温泉を訪ねて次のような記事を書いていた。こちらもたいへん興味深い記事だったので、若干の修正のうえ紹介してみる。

 群馬県の山間部にある川原湯温泉は、800年の歴史を持つ名湯だ。かつて、吾妻川の清流に沿って、温泉情緒が漂う静かな山峡のいで湯であった。だが、1952(昭和27)年に、首都圏の生活用水の確保と、利根川の氾濫を防止する目的で、大規模なダムを建設する計画が浮上。温泉街を含む周辺集落がすべて水没してしまうため、賛否両論が入れ乱れて、建設計画は難航。だが、紆余曲折の末に2020(令和2)年3月末にダムは完成し、広大なダム湖「八ッ場あがつま湖」が出現した。

 この結果、JR吾妻線の岩島~長野原草津口間が、2014(平成26)年に川をはさんだ旧線の南側に敷設された新線に切り替わり、温泉街と共に川原湯温泉駅もダムの底に沈んだ。水没した旧川原湯温泉駅は、吾妻線で最後まで残った木造駅舎だった。日本一短いトンネルは廃止され、今は観光用自転車トロッコが走る。廃止された区間には全長7.2メートルの、当時日本一短い樽沢トンネルがあった。だが、このトンネルがある地点は水没を免れ、その後は観光用自転車型トロッコのルートとして活用されている。また、新しいダム湖「八ッ場あがつま湖」には、湖を40分で一周する遊覧船が運航を開始したほか、夏から秋にかけては水陸両用バスが運行されている。

 川原湯温泉の温泉街にかつて20軒以上あった旅館は、水没に伴って高台に移転する宿と、そのまま廃業する宿に分れ、結局残ったのは6軒だけだった。現在、温泉宿を含む集落は、かつての吾妻川の南側に移転し、その高台からは広大なダム湖を眺めることができる。昔の温泉情緒は失われてしまったが、日本一新しい温泉街として生まれ変わったというわけである。老舗旅館の山木館は、ダム建設に伴い、352年の歴史ある旧館から高台の新館に移転した。そして宿のシンボルが水車で、以前は露天風呂の脇にあったが、現在は玄関前に移設されている。

 温泉の中心は昔も今も「王湯」。ここから湧き出ている源泉が、川原湯温泉の各旅館に引かれている。硫黄の匂いが漂う露天風呂からは、木々の向こうにダム湖の姿を眺めることができる。この「王湯」も高台に移転された。だが、この温泉を訪れる人の多くはマイカーでやって来るため、吾妻線を利用して川原湯温泉駅で降りる客はきわめて少ない。かつて停車していた上野からの特急「草津」は、2017(平成29)年春からすべて通過することとなり、今ではついに無人駅になってしまった。せっかく近代的な駅舎を新築し、特急が停車できる長いホームがあるのに、あまりにも寂しい駅の風景であった。

 以上のような近況なのだが、こうした事態の出現はこれまた予見されていたことであろう。昔のような川原湯温泉の賑わいが戻ってくることはなかろう。残念だが、これもまたやむを得ないことなのかもしれない。県のホームページにあった、「ダムやダム湖、各地域振興施設が連携した魅力ある地域づくり」が必要なことは間違いなかろうが、それだけでは言葉だけのスルーガンに終わるのではあるまいか。

 調査旅行の最終日に訪ねたのは、中之条町の六合(くに)地区にある赤岩集落である。ここは重要伝統的建造物群保存地区となっている。六合と書いて「くに」と読ませるのだが、この読み方も珍しい。1900年に当時の草津村から分村する際に、6つの集落が合わさると言うことで六合と名付けられ、その読み方は古事記に由来するようだ。赤岩はその6つの集落のうちの一つで、明治の後半から昭和の中期にかけて養蚕が盛んな地区であったようだ。

  文化庁は2015年から日本遺産の認定を始め、その第1回目の認定の際に選ばれた18件のひとつとして、「かかあ天下-群馬の絹物語-」が日本遺産となったことについては、既に紹介済みである。この遺産は13の文化財によって構成されているのだが、その一つが「中之条町六合赤岩伝統的建造物群保存地区」なのである。ここはその後群馬県では最初の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に選ばれている。そんなわけで、今回の調査旅行の訪問先に選ばれたのであろう。

 その選定理由としては、日本の典型的な山村地域の家並みや景観を保っているところに価値があり、幕末や明治時代に建てられた養蚕農家が現存しているだけでなく、蔵や小屋、石垣や樹木から構成される敷地、通り沿いの景観、お宮や御堂の配置、周囲の農地や森林環境など、江戸時代からの環境も残っていたからである。県内の養蚕農家群は減少の一途をたどっているが、赤岩地区は住民の協力と重伝建への選定によって、今後も残っていくことになるのだろう。当日は小春日和のぽかぽか陽気だったので、日本の田舎の原風景を眺めながらの散策に、そしてまた、旧き物たちの静かな佇まいにひとりでに心が和んだ。今回の調査旅行のテーマはいつにも増して多岐にわたったが、それを締めくくるに相応しい小半日であったと言えよう。

PHOTO ALBUM「裸木」(2023/08/25

八ッ場ダムにて(1)

八ッ場ダムにて(2)

赤岩集落にて(1)

赤岩集落にて(2)

赤岩集落にて(3)