早春の北関東紀行(二)-伊勢崎のベトナム料理の店にて-
韮塚製糸場は、直次郎が1876(明治9)年に創立し、その後3年間ほど操業していた民間の器械式の製糸場である。富岡製糸場を模範として明治の前期に建てられた製糸場は、全国に約20カ所ほどあったとのことだが、地下の遺構も含めて現存するのはここだけであり、唯一の貴重な建造物であると考えられるとのこと。そこで、当時の建物の大部分や繰糸機を並べた跡などの遺構を再現・保存したのだという。隣にある富岡製糸場があまりにも立派なので、わざわざ韮塚製糸場にまで足を延ばす人は多くはないかもしれない。かく言う私も、製糸場の遺構を見てもそれほどの感慨は湧かなかったが、それもやむを得ないことであろう。
一通り見学してから、コーヒーでも飲もうと思い同行のBさんと連れ立って外に出た。調査の合間に挟まれた自由時間は何とも貴重であり、彼と久しぶりに四方山話でもしたかった。ぶらぶらしていたら、道路を挟んだ向かい側に、カフェドロームという何ともレトロな雰囲気の喫茶店があった。店内にもアンティークが飾られており、コーヒーは勿論ながら器にもこだわっている、そんな店だった。「明治ハイカラ、大正ロマン、昭和レトロ」と俗に言ったりもするようだが、明治の旧い建物を見学した後だったので、先のどれにも当てはまりそうな感じがしなくもなかった。
夕刻に初日の宿泊先のある伊勢崎(「いせざき」ではなく「いせさき」である)に戻った。ホテルは駅の直ぐ側だったが、周りには店がほとんど見当たらず、閑散として寂しい場所だった。当初の計画では、ホテルに戻ってから市内にある旧時報鐘楼を見に行くことになっていたが、そこまでの元気はなくなっていたので、鐘楼は翌日の朝に一人で見に行くことにした。当日の夕食は、結団式を兼ねてベトナム料理の店で摂ることになっていた。その店は、駅からしばらく歩いたところにあったが、店の周りは繁華街で駅前とは大違いだった。われわれが向かったベトナム料理の店は「わたしのお店」と言い、この店を経営するYさんから、翌日外国人労働者を巡るさまざまな問題についてヒアリングすることになっていた。
そんな事情もあった所為か、われわれは心からのもてなしを受けた。Yさんはベトナムから日本に来て、苦労の末に今の地位を築かれたようだ。まだ若くて元気溌剌としており、起業家精神に溢れたエネルギッシュな方とお見受けした。店は現地の屋台村のように作られており、周りがビニール張りの店内には、プラスチックでできた椅子が並べられていた。敢えてそうしているのか、あるいはそうせざるを得ないのかはよく分からなかったが、屋台の雰囲気が好きな人にはたまらないのかもしれない。気安く入れ、値段も安いのがいいのである。店のホームページによると、「ベトナムの国民食である『フォー』や『バインミー』はもちろん、ベトナムの暮らしに根付いたメニューも気軽に楽しめるお店です。開放的なベトナム屋台のような店内で、本場の雰囲気を満喫しながらお食事をお楽しみください」とあった。
だいぶ昔に社会科学研究所の調査旅行でベトナムに出掛けたことがあるが、その時は本場のベトナム料理にいささか弱った思いをした。だが、「わたしのお店」で出された料理は、それほどの癖もなく普通に食べることができた。日本人向けに味付けも工夫されているのだろう。ベトナム料理の一般的な特徴としては、小魚を塩漬けにして発酵させた魚醤(ヌクマム)などの発酵調味料を使うこと、そしてまた中国の華南同様に米食文化であり、麺類や春巻の皮なども小麦ではなく米から作ることなどが挙げられるようだ。昔私が弱ったのはこのヌクマムである。
しかし大事なことは、勿論ながら食べ物の話ではない。店の紹介欄には、次のようなことも書かれていた。「『私のお店』は、ベトナム料理をベトナム屋台村で提供します。パクチー、牛肉フォー、鶏肉フォー、揚げ春巻き、バインミー、ブンチャーなど日本にいながらベトナムを体感してもらえます。親会社は、(株)DS in Japan(DSJ)。人財派遣、技能実習生、特定技能者を人手不足の企業様にご提供しています。食事しながら人財相談も出来ます。その他、VISA申請支援、ベトナムに関する諸事情などもご提供しております。 ベトナム料理を食べた後、DSJが運営するカラオケ「9999フォーナインBar」でカラオケもご利用いただけます。『私のお店』でベトナムを堪能していただけます」。手広い仕事ぶりだが、メインは人材派遣業なのかもしれない。食事だけではなく、人材も提供しているのだろう。私は「人財」などという表記に違和感を感じるような人間なので、普通に「人材」と書くわけだが…。
またネットで検索すると、『上毛新聞』に次のような記事も掲載されたようだ。「コロナ禍で困窮する人々に食料を配布する『タイガーマスク弁当』の取り組みを広げようと、群馬県伊勢崎市中央町のベトナム料理店『私のお店』は22日、弁当の無料配布を始めた。留学生、技能実習生ら外国人と子どもを優先し、25日まで1日30食限定で配布する。弁当配布を先駆けて行った前橋市の飲食店「ホルモンしま田」を運営する大吉興業が協力。同社のIさんは「くせがなく食べやすいもつ煮を味わえる弁当を用意した」とアピールした。『私のお店』を運営する『DS in Japan(ディーエス・イン・ジャパン)』のHさんは『伊勢崎は外国人が多く、コロナで困っている人もいると思う。この取り組みを多くの人に知ってほしい』と話している」。先のYさんの、同胞を初めとした外国人労働者に対する熱い思いが伝わってくるような試みである。
たらふく飲み食いし、満足して帰路に就こうとしたのだが、春まだ浅い上州の夜はかなり冷え込んでいた。昼は穏やかな日和だったのに、夜は殊の外寒い。私のような後期高齢者には、ホテルまで歩いて帰る元気は残っていなかったので、タクシーを呼んでもらってホテルに戻った。朝目を覚ますと、前日と同じような穏やかないい天気だった。朝食後出発までの時間を利用して、旧時報鐘楼を見ようと街に出た。地図で見ると駅からそれほど離れてはいないようなのだが、なかなか辿り着けない。道を尋ねつつようやく着いた。
この旧時報鐘楼は、伊勢崎市の重要文化財であり、景観重要建造物に指定されているとのこと。街中に何気なくそびえたつ佇まいがいいからだろう。レトロな赤レンガ造りなので、大正ロマンあふれる観光スポットでもある。私のように迷わなければ、伊勢崎駅から徒歩で約10分程である。かつて伊勢崎藩の陣屋があったところに地元の交流施設があり、旧時報鐘楼はその敷地内にある。伊勢崎市はかつて「伊勢崎銘仙」(平織りの絹織物であり、丈夫で安価であったために大正から昭和の初期に普段着として大流行したという)で栄えたところであり、その栄華の名残のようにも見える。
この鐘楼は、1916(大正5)年に完成した群馬県内最古の鉄筋コンクリート建造物であり、当時は朝昼夕と3回の時刻を知らせていたが、1937(昭和12)年からは警察署の望楼のサイレンが時報を担うことになったのだという。大正初期から昭和初期の22年間、伊勢崎市の時刻を知らせるシンボルとして人々に親しまれていたらしい。高さ15m近くある塔だし、ドーム型の屋根やルネサンス風の窓も美しいので、写真映えのするスポットとして今でも人気があるとのこと。かく言う私も写真心をくすぐられてたくさん撮った。
鐘楼と言われているのは、建築当時楼の上部に釣鐘があったからだが、戦時中の金属回収により供出。また塔屋部分も戦火で焼失してしまったとのこと。戦後に寄棟造りに復旧されたのち、1990(平成2)年に伊勢崎市施行50周年記念として建設当初の美しい屋根をあしらった姿に復元されている。1993(平成5)年には市の重要文化財に指定されているとのこと。鐘楼を建てたのは、当時横浜で貿易商を営んでいた伊勢崎市出身の小林柱助である。市への数々の社会貢献に加えて、時間の大切さを知ってもらうために時報鐘楼の建築費用を寄付したのだという。「時は金なり」とでも思っていたのか。
景観重要建造物とは、景観法の規定にもとづき、地域の自然や歴史・文化的な観点から見てそれらを形成するのに重要なものとして指定された建造物のことである。伊勢崎市では、養蚕などに拘わるものが多く対象とされているが、この鐘楼も、周辺の景観形成において重要なものと判断され、2015(平成27)年に、伊勢崎市の景観重要建造物第2号に指定されている。鐘楼の近くには、その第1号に指定された「いせさき明治館」があった。1912(明治45)年に建築された群馬県内最古の木造洋風医院建築だという。ホテルに戻る際にこの明治館も眺めてきた。近代化とは、時間の合理性を確立することだと言われたりもするが、過労死が珍しくもない社会は前近代なのかとも思ったりした。時報鐘楼が必要なのは、もしかしたら今の日本なのかもしれない。
PHOTO ALBUM「裸木」(2023/07/13)
伊勢崎にて(1)
伊勢崎にて(2)
伊勢崎にて(3)