早春の北関東紀行(三)-太田の日本定住資料館など(上)-
「早春の北関東紀行」も3回目となり、途中に挟まった様々な案件も片付き、ようやくのんびりとした気分でブログに向かえるようになった。老後の道楽に戻れたのは嬉しいのだが、今度は連日の猛暑である。あまりの暑さに辟易してしまっただけではなく、寝苦しい夜が続くこんな時期にパソコンを前にしていると、直ぐに睡魔が襲ってくる。いい気持ちで居眠りばかりして、作業がなかなかはかどらない。何とも困ったものである。「朝寝坊 昼寝もすれば宵寝する 時々起きて居眠りもする」という戯れ歌があるが、そんな具合のようでもある。調査旅行の二日目に出掛けたのは太田市と大泉町である。ともに、われわれが宿泊したホテルのある伊勢崎市の東隣の東毛地区に位置する。
まず太田市に出掛け、午前中に市のハローワークで主に外国人労働者の労働力の需給状況について話を聞き、午後に旧中島飛行機工場の跡地を訪ね、その後大泉町の観光協会の中にある日本定住資料館を訪問するとともに外国人労働者の居住地区を巡り、夕刻には伊勢崎に戻って、外国人の移住支援に拘わるNPOの方々から話を聞いた。結構立て込んだスケジュールである。考えてみると、この日は様々な人々(ハローワーク、観光協会、NPO)から聞き取り調査を行うことによって、外国人労働者問題に多角的にアプローチしたことになる。後に詳しく触れることになるが、旧中島飛行機では戦前中国人や朝鮮人の強制労働もあったようだから、こちらもまた外国人労働者問題と深い関わりがあると言えよう。
では何故太田市や大泉町に出掛けたのかと言えば、そこの多くの外国人労働者が定住し働いているからである。こうした状態、すなわちある共通項を持つ者が、一定の地域に集まり暮らすことを集住と言うが、では何故そうした集住が生まれたのであろうか。そのあたりから話を進めてみよう。群馬県は外国人の割合が高く、県の人口の約3%が外国人である。その割合は東京都や愛知県に次いで全国3位の高さだという。群馬県内でも、大企業の工場が立ち並ぶ東毛地区には外国人が多いが、大泉町はその典型とも言うべき処で、外国人(その多くがブラジル人である)が多く住む町としてよく知られている。バブル期に出稼ぎのために来日した外国人労働者の多くが、その後定住したからである。
2018年時点で、住民のおよそ5人に1人が外国人であり、そしてその過半をブラジル人が占めている。つまり、日本人も含めた大泉町の42,000人の人口のうち、10人に1人はブラジル人だということになる。驚くほどの比率の高さである。ここがリトル・ブラジルと呼ばれても不思議ではない。大泉町に住む日系ブラジル人の多くは、1990年に入管法が改正された際に在留資格制度に加わった「定住者」(法務大臣が特別な理由を考慮して一定の在留期間を認める者)ビザを利用して来日した人だという。この改正をきっかけに、20世紀初頭に南米に渡った日本人の子孫である日系ブラジル人が、とりわけ多く来日し、現在の高いブラジル人比率につながっているのだという。単純労働に従事する外国人労働者の受け入れが可能になったためである。
その背景として、北関東がわが国有数の工業地帯を形成していることがあげられよう。京浜工業地帯や京葉工業地帯はよく知られているが、北関東にもかなりの数の工場が立地している。地価が安いために広い土地を確保でき、都心にも近かったからである。中島飛行機に源流を持つ富士重工業を始めとして、高度経済成長期に多くの企業が北関東に工場を建設した。大泉町には100社を超える工場が進出したらしい。バブル期になると労働力不足が深刻化したため、企業は海外に住む日系外国人を採用するための協議会を立ち上げることになる。採用担当者のブラジル派遣や現地の新聞に求人広告を掲載するといった活動によって、多くの日系ブラジル人が来日することになったのである。
大泉町では、来日した住民向けにポルトガル語版の広報紙を作成したり、日本の文化や習慣を伝える事業を展開するなどして、多文化共生を目指しているようだ。しかしながら、受入れ開始から30年ほど経過した現在、当初は予想されていなかった問題が顕在化してきているのだという。貧困問題もその一つである。2008年のリーマンショック時には、工場で働く労働者が多数失業する事態に直面した。外国人労働者の再就職の前に大きく立ちはだかっているのが言語の壁である。
工場での仕事には、日本語での会話がそれほど必要がないケースもあるが、やはり日本語のできる人材が好まれる傾向にあるようで、こうした事情から、なかなか再就職できず生活保護に頼らざるを得なくなったケースが多く生まれたのだという。また、日本語が不自由な日系ブラジル人の子女が、学校になじめず不登校に陥るケースも問題となっているとのこと。そこに見られるのは、外国人も労働「力」であるとともに労働「者」であり、「労働」者は同時に「生活」者でもあるという、ごく当たり前の現実である。
日本定住資料館で手にしたパンフレットによると、日本人が最初に海外に集団移住したのは1868(明治元)年のことだという。以後76万人が、いろいろな目的をもって日本から海を渡り移民した。 2018年6月には最初に集団移住したハワイ移民から数えて150周年を迎えたこともあって、ホノルルで式典が開催されたと記されていた。明治の初期にお雇い外国人が日本に来たことは、このブログでも触れたことがあるが、日本人もまたそのころから海外に向かっていたのである。ということは、日本人も昔から外国人労働者だったということでもあろう。近代化とは、国境を越えた人々の移動が活発化することであるのかもしれない。この日は好天に恵まれ、汗ばむほどだった。日本定住資料館を見学した後、調査旅行のメンバーは三々五々「リトルブラジル」見学に向かったようだが、年寄りの二人は、おそらく猥雑であろう「異国」訪問を早々と諦め、西小泉駅の側で冷たい飲み物で喉を潤しながら雑談に耽った。
われわれは、外国人労働者というと大泉町に典型的に現れたような「ニューカマー」のことしか思い浮かべないことが多い。だが、日本には「オールドカマー」問題もある。そのことが改めて実感されたのは、旧中島飛行機工場の跡地の見学に出掛けた際に、地下工場跡の側に建てられた説明板をみかけたからである。1972(昭和47)年に、県の日中友好協会の手によって「トンネルの由来」を記した説明板が建てられるのであるが、それが老朽化したこともあって、戦後50年を機に平和への願いを込めて太田市の教育委員会が立て替えたものだという。では、そこにどんなことが書かれてあったのか、全文をそのまま紹介してみる。
このトンネルは、太平洋戦争の最中、1945(昭和20)年に中島飛行機太田製作所の分散工場の一つ(藪塚工場)として掘られたものですが、完成を待たずに終戦を迎えました。終戦後、米国戦略爆撃調査団による調査が行われましたが、調査に訪れた日(1945年11月13日)には、既にすべての入り口で崩落が始まっており、かろうじて崩れ落ちた土砂ごしに、地下道の中をのぞくことができたといいます。この地下工場の掘削は、昭和20年1月から始まり、1,500人が10時間交替で働いたといわれます。4月末からは、中国から強制的に連行され、それまで長野県木曽谷の発電所建設工事現場で強制労働させられていた280人の中国人も動員されましたが、苛酷な労働と栄養失調のために、昭和20年5月から終戦後の11月までの7ヵ月の間に、50人の中国人が無残な死を遂げました。昭和20年11月1日には、死亡者の慰霊祭が行われ、木曽谷から奉持してきていた遺骨も一緒に長岡寺(ちょうこうじ)の墓地に埋葬され、小さな石碑が建てられました。石碑には85名の殉難烈士の氏名と、帰国することができた中国人の追悼の言葉が刻まれています。また、1953(昭和28)年8月には遺骨の発掘、慰霊祭が行われ、遺骨は中国へ奉送されました。この遺骨は、天津市にある抗日殉難烈士の墓に納められています。
中島飛行機と言っても、今時の若い人達にはなじみがないかもしれない。この会社は、第二次世界大戦前の軍用機メーカーで、中島知久平(なかじま・ちくへい)が1917(大正6)年に郷里の太田市に創設した飛行機研究所に始まるという。1919年に民間で製作した最初の軍用機を納入し、中島飛行機製作所が発足。満州事変以降戦争拡大の時流に乗って急成長し、傘下に多数の下請け企業を擁して中島コンツェルンを形成し、三菱重工と並ぶ日本最大級の軍用機製造メーカーへと発展した。陸海軍の軍機100種以上、約2万4000機の機体と約4万4000台の発動機を生産したが、1945年4月に第一軍需工廠として国営に移管。敗戦後は占領軍の財閥解体によって12社に分割された(社長の中島も、A級戦犯容疑で逮捕されている)。その後、主要部分は富士重工業に統合された、そんな会社なのである。
広大な跡地は広場や運動公園や墓地になっているようで、先の説明板と地下道の入口に設けられた侵入を防ぐ柵以外に、往時を偲ぶもの何もない。見渡す限りの広い丘陵で、建物らしきものさえ見えない。駐車場の先にも畑が広がるばかりで、早春の光が目に眩しい。桜の季節になれば人々が訪れるのであろうが、この季節では行き交う人もいない。完成することもなく潰えた地下工場の跡地は、そんな寂しい場所であった。動員された学徒や中国人徴用工の世界でもあった太田市は、今は外国人労働者が集住する世界に変貌している。時は流れ、時代は大きく移り変わったのである。
PHOTO ALBUM「裸木」(2023/07/19)
旧中島飛行機工場跡地にて(1)
旧中島飛行機工場跡地にて(2)
旧中島飛行機工場跡地にて(3)