早春の上州紀行-富岡製糸場雑感(上)-
夏の真っ盛りのような日が続く今日この頃である。こんな時期に早春の話もないような気がしたが、長々と続けてきた「早春の上州紀行」が、未だ結末にまで辿り着いていなかったので、季節外れを承知の上で最終回を3回に分けて載せておくことにした。賞味期限の切れた食品、あるいは気の抜けたビールのようなものかもしれない(笑)。味わい難い文章だとは思うが、どうかご容赦願いたい。
調査旅行の初日に訪ねた富岡製糸場の話を、最後の最後になって紹介することになってしまったのには、それなりのわけがある。見学して感じたことをどんなふうに書き留めればいいのか迷い、何時までたっても書いてみたい文章の輪郭が浮かんでこなかったからである。富岡製糸場を見学した際に、学芸員の方から随分と丁寧な説明を受けたし、そこで受け取った県の企画部世界遺産課が作成したパンフレットもきちんと読んでみた。世界遺産に登録されただけあって、なかなかしっかりと作られていた。
富岡製糸場を紹介した著作などもたくさんあるので、調査旅行からの帰宅後にあれこれと目を通してみた。事実に関する事柄についてはいまさら変えようもないので、だいたい似たような話があちこちに登場していた。そのことをここであらためて繰り返して紹介してみても、あまり意味はないような気がする。だから何を書けばいいのか迷ったのである。これが一つ目の迷いである。
それともう一つは、富岡製糸場を見学した際に抱いた違和感の正体が、よく掴めなかったことである。はっきりとした違和感であれば、話は案外簡単なのかもしれない。その正体を時間を掛けて探求しさえすれば、それで問題は一応解決するからである。しかしながら、私の抱いた違和感は何ともぼんやりしたものだったので、いつまで経ってもその姿形が鮮明にならなかった。今風に言えば、モヤモヤ感とでもなるのであろうか。すっきりしない。だから困ったのである。
日本の政府や国民や地元の人々、そしてまた見学に訪れる人々は、この世界遺産を果たしてどんなものとして受け止めているのであろうか。我々を乗せたバスの駐車場は製糸場の入口から離れたところにあったので、少しばかり町並みを歩いたのだが、道路の両側には土産物屋がたくさん並んでいた。もしかしたら、富岡製糸場は地元にとって誉れ高い観光施設と化しているのかもしれない。それがおかしいとまで断定的に言うつもりは毛頭ないのだが、それでもどうも気になる。
広大な敷地のなかに足を踏み入れれば、当時最新鋭の設備を誇った製糸技術や、さまざまな建造物に関する紹介はふんだんにあるのだが、新たに導入された人事・労務管理の現実や、そこで働いていた人々の実態が、今一つよく分からない。果たしてどんなものだったのであろうか、フランスから輸入された近代的な工場制度のもとにあったので、「労働条件は思いの外恵まれていた」といったイメージだけが先行していて、この製糸場で働いていた人間の姿がどこにも見当たらないようにも思えたのである。
あるいはまた、明治期の日本における最大の輸出品であった生糸が、殖産興業政策に沿って日本の近代化に大きな役割を果たしたことは間違いないのだが、そのことはまた、富国強兵政策を支えることにもなっていて、日本の軍事大国化への先鞭を付けたことなどには触れなくていいのだろうか、などと思ったりもした。俗に言う「絹と軍艦」を巡る話である。総じて言えば、日本の近代化を成し遂げた明治期の日本を、ほぼ手放しで称揚しているだけでいいのだろうか、そんな違和感が何時までも消えなかったのである。こんな大きなテーマへと連なるような違和感であっては、不勉強な私がぼんやりと佇んでいるだけだったのは当然であったのかもしれない。
こうした違和感に何とかけりをつけようともがいてきたのだが、土壇場になって考えが変わった。論文を書いているわけではないのだから、無理にけりを付けなくてもいいのではないか、ふとそんな気になったのである。今回実施された社会科学研究所の調査は、「近代化遺産を通して学ぶ社会変化」がテーマとなっており、これから先の調査もこのテーマに沿って企画されていくはずなので、初回から結論じみた話にいつまでも拘らずに、この後ゆっくりと考えていくことにした。
小人の私にはあれこれの欠点があるが(生身の人間なのだから当然であるー笑)、そのうちのひとつが結論を急ぎ過ぎることである。周りからもよくそう言われている(笑)。この年まで来るとなかなか治らないなどと言いたくもなるが、そう言ってしまっては年寄りの居直りに過ぎなかろう。武田砂鉄さんの著作のタイトルの表現を使わせてもらうなら、「紋切型社会」における「わかりやすさの罪」に陥る危険性も考えなければならないということか。結論を急ぎすぎないのも大事なことである。年を取ることによって身に付けることができる年の功とは、そうしたものを言うのであろう。
製糸場で受け取ったパンフレットによれば、「富岡製糸場と絹産業遺産群」の世界遺産としての価値は、「高品質生糸の大量生産を実現して絹産業の発展をもたらした、日本と他の国々との産業技術の相互交流をしめす好例」であり、「西欧から導入した器械製糸技術を発展させるとともに養蚕業の技術革新を行い、それらの技術を今度は世界各国に広め」たところにあると紹介されている。
世界遺産として登録されたのは、富岡製糸場だけではない。絹産業遺産群とあることからも分かるように、富岡製糸場を核としながら、近代養蚕農家の原型となり、通風を重視した「清涼育」を大成した田島弥平の旧宅、近代養蚕法の標準となった「清温育」が開発された高山社の跡、日本最大規模の蚕種貯蔵施設であった荒船風穴が含まれており、それらは相互に関連し合って、良質な繭の開発と普及に貢献したのだという。
これらの遺産群が、「生糸生産の各過程における技術革新の主要な舞台であり、さらに教育や出版、取引などを通じて全国に大きな影響を与え」たとも記されていた。こうした記述からも分かるように、もともと富岡製糸場の世界遺産への登録にあたっては、製糸業の発展にかかわる技術交流や技術革新に焦点が当てられており、そうした領域にかかわる個人(例えば、お雇い外国人技術者のブリュナ、初代場長の尾高惇忠、新しい養蚕法を研究した田島弥平、高山社を設立した高山長五郎など)は登場するものの、無名の働く人々に関する記述はまったくない。世界遺産の登録に当たっての上記のような経緯からすれば、それはある意味当然のことだったのかもしれない。
しかしながら、この私には人間の労働があってこその技術ではないのかといった、素朴な思い込みがいつまでたっても消えない。大学に転職する前、(財)労働科学研究所に15年ほど勤務していたこともあり、そこでは労働の現場の重要性を叩き込まれたことも影響しているのだろう。人々は働くことによって生きていく。その働き方が今で言う持続可能性を持たないような働き方であってはならない、富岡製糸場を見学しながら思っていたことは、そんなことであった。