早春の上州紀行(四)-「織都」桐生探訪記-
調査旅行の二日目に、JRの両毛線に乗って「織都」(しょくと)とも称される桐生に出掛けた。この電車は、高崎から乗車して前橋、伊勢崎を通過し桐生に着く。ちなみに、両毛線の両毛とは上毛国と下毛国を指している。群馬の高崎と栃木の小山を結んでいるので、そう称することになったのだろう。もともとは主に生糸や絹織物を運ぶ鉄道だったようだ。桐生で見学したのは、桐生織物記念館、有鄰館、そして織物参考館”紫”の三つの施設であり、その間に桐生新町に残された重要伝統的建造物保存地区を、地元のボランティアの方の案内でのんびりと散策した。有鄰館の「鄰」の字も、今であれば「隣」と書くはずだが、旧字体の「鄰」となっていたし、織物参考館”紫”も「むらさき」ではなくあえて「ゆかり」と読ませていたが、そんなところにも歴史が感じられた。
ところで、桐生とはどんな街なのか。入手したパンフレットには、桐生は「日本遺産に出会えるまち」として紹介されていた。日本遺産とは、地域の歴史的魅力や特色を通して日本の文化や伝統を語るストーリーを文化庁が認定するものであり、それぞれの遺産は、そのストーリーとそれを物語る文化財で構成されている。「かかあ天下-ぐんまの絹物語-」は、日本遺産認定の初年度となる2015年度に認定されたのだという。この遺産は、群馬県内(桐生市、甘楽町、中之条町、片品村)にある13件の文化財からなり、古くから盛んであった上州の絹産業とそこにおける女性の活躍を伝える日本遺産である。桐生市には、その13件のうち6件の文化財があり、そのいずれもが絹織物の歴史と文化を伝える重要な役割を担っているとのこと。上毛かるたにも「桐生は日本の機(はた)どころ」と謳われるとおり、桐生は絹織物の町すなわち「織都」なのである。
われわれは、絹織物とは直接関係がない有鄰館を除いて、桐生にある6件の文化財のうちの3件を訪ねたことになる。せっかくだから、それぞれの文化財と有鄰館の印象を簡単に紹介してみよう。まずは桐生織物記念館である。外観からしていかにも風格を感じさせる歴史的建造物であるが、その印象は建物の中に入るとさらに強まる。私などは、陳列してある展示物よりも、その建物の醸し出すレトロスペクティブな雰囲気に強く惹かれてしまった(笑)。ホームページによると、この記念館は大要次のように紹介されている。
絹織物の産地としての桐生の繁栄は、1930年代半ばに最盛期を迎えることになる。桐生織物記念館は当時の桐生織物同業組合の事務所として1934年に建てられており、当時の桐生の繁栄を今に伝える歴史的な建造物である。1997年に国の登録有形文化財に指定され、その後日本遺産の構成施設として認定されている。建物は木造二階建ての瓦ぶきで、当時流行したスクラッチタイル(多数の細かい溝の模様があるタイルのこと)が張りめぐらされており、さらには、屋根に青緑色の洋瓦を用い、二階の旧大広間にはステンドグラスが入ったモダンな造りとなっている。2001年に現在の名称に改称され、桐生における産業観光の中核施設として生まれ変わったのだという。桐生の繁栄を象徴するその重厚な佇まいは、回りからも高く評価されているとのこと。私なども写真心をいたく刺激されたから、さもありなんと思われた。
次に有鄰館。こちらも歴史を感じさせる建造物である。ここは旧矢野蔵群とも呼ばれている。享保2年(1717年)に近江商人の矢野久左衛門が桐生に来住し、二代目の久左衛門が寛延2年(1749年)に現在の地に店舗を構えることになる。それ以来桐生の商業に大きく寄与してきた矢野商店の蔵群が、この有鄰館である。これらの蔵では酒・醤油・味噌などが醸造されており、もっとも古い蔵は天保14年(1843年)に建てられたものだという。「有鄰」とは、『論語』にある「徳は孤ならず必ず鄰あり」(道義を行う者には、必ず理解者や援助者が集まるとの意)という教えを伝える言葉であり、かつての矢野商店の社是でもあったし、同社が製造していた醤油の商標でもあったとのことである。
敷地内には全部で11棟の蔵があり、ビール蔵を除いた建物が桐生市の指定重要文化財になっているとのこと。同一敷地内に煉瓦造や木造、土蔵造りなどのさまざまな建物が現存しており、桐生の町並み保存の拠点となっているようだ。なかでも、煉瓦で作られた蔵は市内でも有数の建物である。有鄰館として活用するために、ある程度の改修工事が行われているものの、南側入口に設けられたアーチ状の石組や、木造の和小屋組は当初のままとなっているとのこと。その他の蔵も、壁体が土・板・漆喰など異なる材料で作られており、太さや形状が異なる柱などが独特の景観を生み出している。現在では、コンサートや舞台、ギャラリーなどに活用されているのだという。私はここでも大いに写真心をくすぐられた(笑)。そしてまた、こうした建物を大事に保存しながらそれを積極的に活用している桐生という町に、親しみを感じ好感を抱いた。
上記の二つの施設と比べると、織物参考館”紫”の印象はいささか薄い。桐生織物記念館を訪ね、桐生新町にある重要伝統的建造物保存地区を散策し、昼食に桐生のご当地メニューだというひもかわ(帯のように平らなうどんである)とソースカツ丼をはじめて食べ、食後に有鄰館を眺め、その後に出掛けた場所だったので、いささか頭が飽和状態だった所為もあったかもしれない(笑)。あるいはまた、こちらが絹織物業で働いていた人間の方に興味があり、その実態を知りたいなどと思っていたこととも無関係ではなかろう。織物参考館”紫”は、ノコギリ屋根の工場を活用した体験型の博物館であり、陳列された古い織機を眺めてながら織物の歴史を辿ることになった。ここでは手織り体験や染物体験もできるのだという。
せっかくだから、桐生新町の重要伝統的建造物保存地区についても一言触れておこう。案内してくれたボランティアの方は、まず最初に保存地区の外れにある天満宮で、その由緒と意匠に関して懇切丁寧に解説してくれた。桐生という町の起点として鎮座しているからであろう。だが、私はほとんど上の空で聞いていた(笑)。そうした話にあまり興味や関心がないからである。できることなら早く町巡りをしたかった。そんなふうに感ずるのは、年を取ってすっかり我が儘になった所為であろう。この保存地区は、天正19年(1591)に徳川家康の命を受け、代官大久保長安(この人物は、初代の佐渡奉行でもあった)の手代大野八右衛門により新たに町立てされており、それ以来在郷町として発展してきたのだという。在郷町とは、農村地域にありながら実質は町として活動しているものをいうようだ。
町が造られた当初は、農閑期の余業として絹織物の生産が行われていたらしい。江戸中期になると「高機」(たかはた、手織機の一種で居座り機よりも腰の位置が高くなる)という技法によって生産された製品「飛紗綾」(とびざや、地が厚くとびとびに花紋のある織物)が江戸や京都などからも注文を受けるようになり、桐生は西陣に脅威を与えるほどの産地へと成長する(当時「西の西陣、東の桐生」とまで呼ばれたらしい)。桐生新町は絹織物の生産の場である一方で、買継商(産地にいて都市の問屋の注文を受け、仲買商が集荷した商品を転売した商人のこと)等が店を構えたりもしたので、流通の場という一面もあわせ持っていた。その結果、そこに暮らす人々や集まる人々の飲食や日用品などを扱う店舗も集積することとなり、町として発展を遂げていくのである。
ここには、江戸の後期から昭和の初期に建てられた主屋や土蔵、ノコギリ屋根の工場など、絹織物業に係わるさまざまな建造物が残されている。地区内には約400棟の建物があり、そのうちの6割が昭和の初期までに建てられたものだという。「織都」としての桐生を代表する象徴的な地区となっており、訪れた人は特色ある歴史的な景観を目にすることができる。こうした場所をのんびりと歩いていると、昔父や母と暮らしていた福島市の五月町界隈の風景が懐かしく想い出され、往時にタイムスリップしたかのような気分だった。