早春の上州紀行(三)-「上毛かるた」考-
こんにゃくパークに貼ってあった何枚かの「上毛かるた」のポスターを見ていたら、素朴な絵に興味が沸いた。そこで、売店でこのかるたを購入した。上州名物としてよく知られているのは、先にも触れたように「かかあ天下と空っ風」であり、俗世間に遍く知られた著名な人物と言えば、国定忠治(他に関八州一の大親分と言われた大前田英五郎などもいるが)であったりするが、かるたには空っ風はあってもかかあ天下はないし、勿論忠治もいない。内村鑑三や新島襄、田山花袋に加えて、関孝和、塩原太助、新田義貞まで登場しているのだから、私としては、忠治ぐらいは入れて欲しかったのだが…(笑)。
かるたは子供向けのものであろうから、どうしても品行方正とならざるをえず、清く正しく美しくなってしまうのであろう。親分や侠客や博徒の出る幕はない(笑)。読み札の裏に解説文があるのもユニークである。いま絵札の絵に興味が沸いたと書いたが、絵は水彩画で小見辰男という前橋出身の画家が描いている。絵でいいなあと思ったのは、繭と生糸であり、清水トンネルであり、尾瀬沼であり、富岡製糸であり、伊香保温泉であり、ねぎとこんにゃくであり、赤城山である。こんな素朴なかるたが今でも売店に置かれているところをみると、きっと広く県民に親しまれ愛されているのであろう。今であれば、「上州名物上毛かるた」という札を作ってもいいのかもしれない(笑)。
先程「上毛かるた」に国定忠治が抜けているなどと書いたが、これはまあ冗談半分である。真面目に不思議だったのは、県都前橋出身の詩人で詩集『月に吠える』や『青猫』で知られた萩原朔太郎の札がなかったことである。私などが言うまでもなく、日本の近代詩を語るうえで忘れてはならない人物である。たまたま高崎駅の構内にあった本屋で、上毛新聞のコラムを集めた『詩(うた)のまち「前橋」ものがたり』(上毛新聞社、2020年)を目にした。地方に出掛けた時には、いつも大きな本屋に立ち寄り郷土関連の出版物のコーナーを眺める。そうすると、ときどき面白い本が見付かることがある。先の本もそんな一冊である。はしがきには次のようなことが書かれていた。
群馬は明治以後、多くの詩人、歌人、俳人を輩出してきたことから、「詩の国」「詩のふる さと」などと呼ばれます。なかでも前橋のまちからは、萩原朔太郎をはじめ、平井晩村、高橋元吉、萩原恭次郎、伊藤信吉ら全国に知られる数々の優れた詩人が生まれ、大きな仕事を残しました。さらに北原白秋、室生犀星、若山牧水、草野心平ら県外の錚々たる詩人、歌人たちが来訪、来住し、交流を繰り広げました。これほどの密度の濃さは他に例がないでしょう。前橋のキャッチフレーズのひとつとして 使われている「詩(うた)のまち」にふさわしい土地であることは間違いありません。
ではなぜ前橋でこのような「詩的にぎわい」が生まれたのでしょう。何より影響したのは、 言うまでもなく萩原朔太郎(1886~1942年)という日本近代詩史に刻まれる画期的 な詩業を残した詩人の存在の大きさです。朔太郎が前橋に生まれ、生涯のほとんどを過ごし、活動を続けたことが、詩人たちに刺激を与え、集うきっかけとなり、詩のまちが形づくられ るもとになりました。
上記のような文章を読むと、萩原朔太郎が抜け落ちた「上毛かるた」は、俗に言う画竜点睛を欠くということにならざるをえまい。泊まった高崎のホテルには、先にも名前が登場した前橋出身の詩人伊藤信吉の「写真で見る近代詩」と題した、没後20年を記念した写真展のチラシが置いてあった。伊藤は自身の詩作のかたわら、さまざまな詩人の原風景を訪ねて日本全国を旅した人として知られる。その写真を展示するということなのであろう。たまたま私の本棚には彼の『詩のふるさと』(新潮社、1966年)と『詩をめぐる旅』(新潮社、1970年)があったので、この機会にと思って朔太郎が登場する箇所を拾い読みしてみた。
そんな気儘な読書をしていてはじめて知ったのだが、朔太郎の『氷島』(1934年)という詩集には「国定忠治の墓」と題した詩が収録されているとのこと。早速例の「青空文庫」で読んでみた。彼が前橋から程近い国定村に出掛けて詠んだ詩なので、せっかくだからここで紹介してみる。今読むと、表現がかなり古風で分かりにくいところもあるとは思うが、寂寥と哀感と苦渋に満ちた作品である。
わがこの村に來りし時
上州の蠶(かいこ)すでに終りて
農家みな冬の閾(しきみ)を閉したり。
太陽は埃に暗く
悽而(せいじ)たる竹藪の影
人生の貧しき慘苦を感ずるなり。
見よ 此處に無用の石
路傍の笹の風に吹かれて
無頼の眠りたる墓は立てり。
ああ我れ故郷に低徊して
此所に思へることは寂しきかな。
久遠に輪を斷絶するも
ああかの荒寥たる平野の中
日月我れを投げうつて去り
意志するものを亡び盡せり。
いかんぞ殘生を新たにするも
冬の蕭條たる墓石の下に
汝はその認識をも無用とせむ。
ところで、この「上毛かるた」には「ねぎとこんにゃく下仁田名産」という札がある。下仁田葱は太くて立派な姿形だが、近くのスーパーではごくたまにしか見掛けない。もう一つのこんにゃくであるが、こちらはすぐに手に入る。先日近くのスーパーに行ったら、「下仁田のこんにゃく」というそのものズバリの名前が付いた商品が置かれていた。製造元の所在地は甘楽郡下仁田町とあったので、何だか急に親しみを感じて買ってみた(笑)。
ところで、何故こんにゃくが下仁田で作られるようになったのであろうか。気温や水はけなどで好立地だったと解説されているが、それよりも、米を作るには不適だったというマイナスの要因の方がかなり大きかったようにも思われる。同じような事情は、蚕の餌となる桑の栽培にもあったのではなかろうか。
こんにゃくと言えば、バスの車中で研究会担当の長尾さんが、木枯らし紋次郎がこんにゃくを食べなかったという話を紹介してくれた。飢饉の際などに貧しい農村では広く間引きが行われたが、上州ではこんにゃくを赤子の喉に詰めて間引きしたらしい。紋次郎も間引きされかけたが、姉の手によって救われるのである。そんな経緯があって、こんにゃくを口にすることができなくなったという話だった。
私も中村敦夫主演の「木枯らし紋次郎」をテレビでよく見たが、その話はまったく覚えていなかった。笹沢佐保の原作には、こんにゃくを喉に詰められそうになったとは書いてなかったが、彼が間引きされかけた話は「童歌を雨に流せ」に登場する(『木枯らし紋次郎(一)』(光文社時代小説文庫、1997年)に収録されている)。解説を書いている縄田一男は、笹沢が「史実との緊張関係をもって作品を書き継いでいる」と指摘していたが、そのことが木枯らし紋次郎という架空の人物に独特の存在感をもたらしていたのではあるまいか。上州ではこんにゃく間引きが広がっていたのかもしれない。何とも悲惨な歴史の真実である。笹沢は先の作品で次のように書いている。
間引きは、子つぶし、子返しなどとも言われている。家族数を制限するために、生まれたばかりの赤ン坊を殺すのである。奈良時代あたりからすで に行なわれていたというが、江戸時代の初期には全国的に広まり、中期以後は半ば公然のこととされるようになった。 特にこの天保の頃になると、農民の生活苦と度重なる飢饉により間引きは一種の習慣と化したのだった。中でも関東、東北地方の農村では、当然のこととして間引きが行なわれていた。
間引きされるのは四番目ぐらいに生まれた子どもが多く、それも女児となると例外なく殺され た。 殺す方法としては、生まれた赤ン坊の首を締める、口の中に異物を押し込む、口と鼻に濡れ た紙を貼りつける、土の中に埋めるといったことが普通のやり方だった。関東や東北では、この間引きと離村が多いために、人口が半分以下に減ったという農村も珍しくなかったのである。