新春の五島・島原紀行(十)-島原の乱雑感-
島原の乱についても、今回の調査旅行を機に俄勉強をすることになったので、興味深いところだけでも触れておきたい。面白かったのは、先に書名だけは紹介した渡辺京二の『バテレンの世紀』(新潮社、2017年)と神田千里(かんだ・ちさと)の『島原の乱』(中公新書、2005年)である。『島原の乱』が余りに面白かったので、ついでに同著者の『戦国と宗教』(岩波新書、2016年)まで手にしてしまった。歴史研究の深淵の一端に触れることができただけでも、幸せだったのかもしれない。
最大の問題は、この島原の乱が、いったいどのような性格のものであり、何を求めた乱だったのかということであろう。「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界遺産に登録されたことを機に、長崎県は6冊からなる『旅する長崎学』を刊行しているが、その6冊目には島原の乱が登場する。そこでは、乱の概略が次のように紹介されている。前述の話と重なるところもあるが、言ってみれば現在の公式の見解がどのようなものなのかを知るためなので、そのまま紹介してみよう。
1637(寛永14)年、飢饉と凶作、圧政に苦しむ島原と天草の民衆の間で不穏な動きがあった。キリスト教を棄てたことによるゼウス(神)のたたりだといううわさも流れるようになり、再びキリシタンにもどる領民も出てきた。 同年、代官が妊婦を拷問死させたことや聖画像を踏みにじったことなどに、南目(みなみめ、島原半島のほぼ中心にある雲仙岳から見て、南側の地域のこと)の村々の領民が激昂。天草四郎を総大将に武力蜂起した。村々の蔵や食糧などを奪いながら、領民たちに一揆への参戦を迫った。 天草でも呼応したように富岡城への攻撃が始まった。
一揆軍は島原城を攻撃したが、落とせず、一国一城制で廃城になっていた原城に立てこもった。その人数は3万7千人ともいわれ、銃の鉛弾を溶かしてつくった十字架に結束を図った。 実際に乱を主導したのは、信仰を棄てなかった有馬家の元家臣たちだったという。最初、幕府軍は力攻めで総攻撃を数回仕掛けたが、落ちなかったため、兵糧攻めに転じた。 約3ヵ月にわたったにらみ合いも、ついに1638(寛永15)年、兵糧が尽き、脱走を図るものが次々と現われ、幕府は総攻撃。 一揆軍を皆殺しし、四郎の首を出島の入り口にさらした。
以上のように書かれているのだが、こうした解説の下敷きともなり、これまで通説とされてきた乱の理解に改めて光を当て直したのが、「キリシタン信仰と武装蜂起」の副題が付された神田の『島原の乱』である。この本の意図するところは、表紙にある次のような一文に明らかである。「大坂の陣から20年余りを経た1637年、天草四郎を擁するキリシタンが九州の一角で突如蜂起し、徳川幕府に強い衝撃を与えた。飢饉と重税、信仰への迫害が乱の原因とされるが、キリシタンが『異教徒』に武力で改宗を強制した例もあり、実情は単純ではない。本書は、戦乱に直面した民衆の多様で生々しい行動を描き、敬虔な信者による殉教戦争というイメージを一新。 民衆にとって宗教や信仰とは何であったかを明らかにする」と言うのである。宗教や信仰が歴史において持つ意味を明らかにしたいという著者の言を、もう少し詳しく聞いてみよう。
通常この乱の原因とされるのは、島原・天草地方の大名が飢饉のさなかに領民に課した重税と幕府の指示のもとで行った大規模なキリシタンの迫害である。この説明は一見納得しやすいものの、具体的にみると問題が多い。 重税に抗しての蜂起とはいうものの、後述するように一揆は、必ずしも重税に苦しむ領民一般の支持を得たわけではない。 一揆は、同じく重税に苦しむはずの民衆にキリシタンへの改宗を武力で強制し、改宗を拒んだ民衆には攻撃を加えた。 重税に抗する農民一揆と簡単に割り切れない側面がある。
また迫害されたキリシタンが武装蜂起したという点にも矛盾がある。信仰篤いキリシタンたちは大名の迫害に直面して躊躇なく殉教の道を選んだことが知られるが、武力抵抗はしなかった。武装蜂起という行動様式がキリシタンとなじまないのである。また蜂起したキリシタンたちは棄教を迫られたから蜂起したのではない。彼らの圧倒的多数は一旦迫害に屈して棄教しており、棄教の後十年近く経ってから「立ち帰」った、即ち再度改宗した「立ち帰りキリシタン」であった。
こうした文章を読んで、これまで通説以外に何も知らなかった私などは、「目から鱗」といった気分であった。宗教や信仰の持つ意味などに何の関心も払ってこなかったのだから、尚更である。飢饉が発生したことも、領民が重税で苦しめられたことも間違いないところではあるのだが、この乱で年貢の減免といった要求が掲げられた事実はないという。この間閑に任せて読んだ中に吉村昭の「磔(はりつけ)」(同名の短編集に所収、文春文庫、1987年)があったが、それによると、秀吉の禁教令に背いた罪で大阪で捕縛された26人を、長崎まで移送した幕府の役人は、途中キリシタンたちによって奪還されるのではないかとひどい緊張にさらされる。しかしながら、何事も起こらずに彼らは大勢のキリシタンたちが見守るなか磔刑(たっけい)に処されるのである。いわゆる26聖人の殉教の話である。彼らは殉教を誇りとさえ思っていたのであろう。
そうだとすると、島原の乱とは一体何だったのかが改めて問われることになる。キリシタンに立ち返って蜂起した領民たちは、村々でキリシタンへの改宗を迫り、従わなければ殺すとまで脅したし、実際に寺社を焼き僧侶たちを殺した。神田が注目するのは、一揆勢の殉教への情熱ではなくキリシタンに立ち返ったことである。では彼らは何故立ち返ったのか。「拷問に等しい重税の取立て」や「飢餓地獄」のなかで、「何故このような困難に直面させられるのかを自問した人々の脳裏に浮かんだのは、10年ほど前、迫害に屈してキリシタンの宗旨を転んだ苦い思い出だったのではないか」という。「キリシタン信仰が盛んであった頃、人々は苦難に直面した折にキリシタンの信仰を拠り所にそれを乗り切ろうとしていた」ので、その思い出が立ち返りに結びついたようだ。
天草四郎の行ったとされるさまざまな秘蹟や終末の予言が流布されたことも、立ち返りに拍車を掛けたに違いない。こうして、宗教が苦境にある者に勇気を与え、一大宗教運動としての乱が勃発するのである。もっとも、一揆勢のなかには改宗を迫られてやむなく加わった者もおり、原城に立てこもってからもかなりの数の逃亡者を生んでいる。それ故、一揆勢が皆殺しにあったといった言説は、「全員殉教という印象にもとづいている部分が少なくない」と言う。こうして神田は、「一揆の行動は、キリシタン大名の時代への、いわば回帰を意図している。言い換えれば、イエズス会宣教師たちの指導した通りに行動することが彼らの目的であった」のではないかと推定している。宣教師たちの指導した通りというのは、信仰の強制と「異教徒」に対する迫害のことである。何とも興味深い推論である。
先の渡辺も、「一揆が最初から狂信的ともいうべき信仰の熱気に包まれていたことには、数々の証言がある」と述べ、「島原・天草一揆を農民一揆か、宗門一揆かと潤う者は、前近代においては、貧困や抑圧に対する現実的抗議が必ず宗教的な 感情によって駆動されるという、ありふれた原則を知らぬ」のであり、「宗門一揆と農民一揆とは表裏一体」なのであると言う。 島原の乱の場合、「問題なのは、それが単なる農民一揆ではなくキリスト教信仰という、思想的な結集点をもっていた農民一揆」だったのであり、「宗教的幻想」という結集軸があったが故に、大規模でラディカルな一揆となったのだと指摘している。しかしながら、幕府軍の総攻撃を受けて、立ち返ったキリシタンたちの夢は見果てぬ夢となって天上に潰えた。1638(寛永15)年2月28日のことである。
PHOTO ALBUM「裸木」(2023/06/25)
原城跡にて(1)
原城跡にて(2)
原城跡にて(3)