新春の五島・島原紀行(五)-禁教・殉教・棄教・背教-

 今回の調査旅行に参加させてもらったことがきっかけで、日本におけるキリスト教の歴史を学ぶことになった。もちろん俄仕立てでちょっとした知識を手に入れただけなので、そのことについて偉そうに語るつもりなど毛頭ない。あれこれの基礎知識を得るための読書は別として、読んでみて面白かったのは、遠藤周作の『キリシタン時代-殉教と棄教の歴史-』(小学館、1992年)であり、渡辺京二の『バテレンの世紀』(新潮社、2017年)である。この二著の体裁は対照的で、前者は文庫版の小ぶりのエッセー集であるが、後者は500ページになんなんとするような大著である。年寄りには大著を読み通すほどの力はないので、こちらは拾い読みしただけある。

 「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界遺産に登録されるにあたっては、禁教期に焦点を絞った遺産構成とするようにとのイコモスからのアドバイスがあったことを、このブログでも紹介した。潜伏キリシタンが五島を含めて各地に生まれたのは、言うまでもなく禁教令があったからなのだが、ではこの禁教令はどのような背景のもとに登場したのであろうか。そこのところを知りたいと思って手にしたのが先の二著である。長崎県が企画に関わっている『旅する長崎学』(長崎文献社、2007年)という6冊からなるシリーズの冊子などもあるが、こちらはキリスト教のもたらした文化的な遺産や受難の歴史を中心にビジュアルな形で紹介してあるのみで、私の期待に応えてくれるものではなかった。対象を突き放して冷静に眺め分析することは、そう簡単ではないということであろうか。

 ところで先の二著であるが、とりわけ興味深かったのは遠藤周作のエッセー集に収録されていた「キリシタン時代-日本と西洋の激突」と「日本の沼の中で-かくれキリシタン考」である。遠藤の言うところを聞いてみよう。キリシタン時代に我々が興味を持つのは、「日本人が初めて西洋とぶつかった時代」だからであり、その時に「キリスト教というもっとも我々には縁遠い、距離のある、しかも激烈な宗教」の洗礼を受けたからである。だからこそ、「あれだけ多くの殉教者と背教者が出、おびただしい血がそこに流れた」のであり、こうしたキリシタン時代をある種の「審美的な懐古趣味」だけで眺めていてはならないというのである。

 私などは、「審美的な懐古趣味」で五島の教会群を眺めてきた人間に過ぎないから、先のような遠藤の指摘にいささかたじろいだのだが、そのたじろぎはさらに続く。「日本人とキリスト教の対決」は、秀吉の禁教令以後の迫害期にこそ典型的に現れた。戦国諸大名たちが南蛮貿易による富国強兵の見地やその他の功利的な理由からキリスト教の布教に寛大だったのに対して、この西欧から来た宗教に初めて「鉄槌をくだした」のは秀吉である。彼の主君だった信長が、上洛した宣教師に好意を示しその活動に保護を与えたことはよく知られている。秀吉は初期には信長と同じような態度を取っていたが、1587(天正15)年の九州征伐が完了した直後に、突然キリスト教の布教を禁じ宣教師の国外退去を命じるのである。

 いったいなぜなのだろうか。一見すると、信長と秀吉の間には宗教政策上の違いがあるように見えはするものの、遠藤は「本質的には同じ」だと言う。つまり、二人はキリスト教と宣教師に利用価値がある間だけ利用したにすぎないからである。信長にとってのキリスト教は、彼をてこずらせた「一向宗を滅ぼすために利用できる西欧の宗教」であったし、秀吉の場合は、同じような利用価値を感じるとともに、九州征伐と朝鮮侵略のためにキリシタン大名たちを懐柔し活用したかったからである。

 だが秀吉は、九州征伐の間に二つの危険を目にするのである。一つは、一向宗に見られたような宗教的なエネルギーが生み出す「反乱可能性」である。九州におけるキリスト教が、一向宗と同じように農民や群小の大名に根を下ろし始め、「教会を中心とするかたい結束」を持ち初めていたからである。もう一つは、長崎とその周辺に宣教師たちが、私領を所有していることを知ったことである。彼にはそこが宣教師による植民地の如くに見えたのである。遠藤は、「これは秀吉だけの一方的な罪ではない。そのような疑いを招いた宣教師側の不手際にもよる」と述べている。

 そもそも、キリシタン時代の教会は内部に大きな矛盾を抱えていた。それは、ポルトガルとスペインに典型的に見られた東洋侵略と植民地主義の企図に便乗して、キリスト教の布教を行おうとしていたことである。暴力をもともなったこうした動きは、「イエスの愛の教え」とは相反するはずであるが、この時代の教会はそうした国家の企図を布教のために黙認して、宣教師を送り込んでいたのである。そこに見られるような宗教上の「教義と政治の矛盾」を、日本に来た宣教師たちは根本的に解決していなかったし、宣教師の中には植民地主義を当然のように考える者さえいたという。だから秀吉が不安と恐怖を感じても当然だったのである。遠藤はそんなふうに指摘している。

 こうして、秀吉はこれまでのキリスト教に対する寛大な対応を捨てて、禁教に踏み切るのである。しかしながら、一方では布教を認めないという禁教政策を採りながらも、他方では南蛮貿易の利益を手にしたかったために、「見て見ぬふり」と迫害とが共存していたようである。その後家康も秀吉に倣って外国人宣教師と主だった日本人聖職者を国外に追放した。宣教師たちの後ろ盾となっていたキリシタン大名たちは、その頃には既に滅亡したり棄教していたので、禁教に反しているとして捕縛されれば、棄教するかさもなくば殉教するしかなくなったのである。勿論ながら、棄教を偽装して潜伏キリシタン(禁教解除後に再び信徒に戻った人々)や隠れキリシタン(禁教解除後にも独自の信仰形態を維持した人々)として生き延びることは、可能ではあったが…。

 棄教を説得されても肯んぜなければ、身の毛もよだつような拷問が待ち受けていた。徳川幕府は死の恐怖を味わわせて棄教を迫ったからである。幕府を驚愕させた島原の乱の後遺症である。精神的な拷問としての絵踏みの他に、「転びキリシタン」の名を生み出した俵責め、『沈黙』の主人公フェレイラを棄教させた穴吊し、雲仙岳の煮えたぎる熱湯をかけた雲仙責め、炭火の上に正座させた炭火責め、身体の一部を切り取っていく刻み責め等々。こうした拷問を受けても、それに耐えて棄教しなければ死ぬしかなく、そうした死は殉教と呼ばれた。殉教を崇高なる死として崇める立場からすれば、聖職者の棄教は背教でもあった。このように、禁教に蔽われた世界は、殉教と棄教と背教が混じり合った血塗られた世界であったように見える。

 今日の我々からすればあまりにも凄惨な世界なので、そう簡単には受け入れることができない。こうした事態をどう理解すればいいのかよくわからないのである。キリスト教どころか宗教から縁遠い世界に生きている筆者などが、困惑するのは当然であったろう。人間はこれほどまでに残酷になれるものなのかという問いも生まれたし、あるいはまた、これほどまでに残酷な拷問を受けても、信仰を捨てない人間がいるものなのかという問いも生まれた。しかしあらためて考えてみると、何故直ちに殺害してしまわずに凄惨な拷問を繰り返したのであろうか。そこもまた謎であった。渡辺京二は先の大著『バテレンの世紀』で次のように書いている。興味深い指摘なのでそのまま紹介してみる。

 禁教令の実施者たちは、いたずらに惨虐を好んで宣教師や信者を拷問したのではない。キリシタンを手っ取り早く根絶したいのなら、宣教師であれ信者であれ、見つけ次第殺せばよいのだ。殺さずに棄教させようとしたからこそ拷問という手段に訴え、相手の頑強さに比例して、拷問の残酷さもエスカレートしたのである。役人たちは信者や宣教師を苦しませて楽しんだわけではない。何としてでも棄教させたかったのであって、ここに当時の「迫害」の特異性がある。殺さずに棄教させようとしたのは、住民の場合、彼らが貴重な労働力だったからだろう。キリシタン故に住民を皆殺しにしたのでは、武士権力の存立の余地はない。 宣教師の場合、殺して殉教の栄光を得させるよりも、棄教させた方が効果はずっと大きい。パードレ(神父のこと)すら教えを棄てたとあれば、信者の志気が沮喪するのは必定である。

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2023/05/29

五島の教会を訪ねて(1)

 

五島の教会を訪ねて(2)

 

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