新春の五島・島原紀行(三)-島の教会群を巡りながら-
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界遺産に登録されるにあたっては、たいへんな紆余曲折があったようである。「長崎の教会群を世界遺産にする会」の活動が始まったのは2001年だということだから、登録されるまでに17年もかかっているわけである。その間の経緯に関する話を、井出明『悲劇の世界遺産 ダークツーリズムから見た世界』(文春真書、2021年)を参照しながら、もう少し続けてみる。
2007年には、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として世界遺産の暫定一覧表に登録されるのであるが、その後推薦を取り下げなければならない事態に見舞われる。そうなったのは、イコモス(ユネスコの諮問機関である国際記念物遺跡会議のこと)から禁教期に焦点を当てた資産の構成にすべきであると指摘されたからである。資産の候補として挙げられていた多くの教会建築は、そのすべてが禁教期ではなく信仰が認められた1873(明治6)年以降のものなので、文化財としての価値が低いとみなされたのである。その結果、日本の建築家である鉄川與助(てつかわ・よすけ)によって設計・建築された教会群はすべて資産から外され、唯一江戸の末期にフランス人が設計指導をした大浦天主堂だけが、世界遺産の登録の対象となった。
井出さんは、「ヨーロッパの感覚からすれば、キリスト教文明について体系的に学んでいない東洋の大工が、見よう見まねで建てた教会は、たとえ地元の人達の心の拠り所であったとしても、文化としてオーソライズすることは難しかったのであろう」と述べている。鉄川與助抜きに五島列島の教会群を語ることはできない。それほど重要な人物なのだが、日本側はイコモスのアドバイスに従い、潜伏キリシタンたちが作り出した「集落」の独自性に焦点を当てて再申請することになったのだという。こうして、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界遺産に登録されることになった。教会群から集落へとテーマも変わり、それにともなって構成資産も変わったのである。
日本側は、イコモスの指摘を受けるまでは、迫害に耐えて信仰を守り抜いたといういささかわかりやすいストーリーを思い描いていたようである。しかしながら、当初のストーリーは修正を余儀なくされ、江戸幕府による禁教と迫害の歴史につても触れなければならなくなった。イコモスが、禁教の歴史についても触れるべきであるというのであれば、井出さんが言うように、その前提として禁教政策が採られることになった背景についても、つまびらかにされなければならない。この問題については後で触れたい。
今回の調査旅行で廻った教会は、禁教令が解かれてから建てられた教会ではあるが、地元の信者の人々にとっては、貧しい暮らしの中から私財をなげうって(時には労力をも提供して)建てたものであり、夢や希望の象徴であったことだろう。それぞれの教会の建設に至るまでの苦難の歴史が、そのことを物語っているように思われる。たとえ世界遺産の構成資産から外れてしまったとしても、見学すべき価値のある文化財である、私にはそんなふうに思われた。世界遺産のみが立派なのではない。
今回の調査旅行では、2日に渡ってたくさんの教会を巡ったので、年寄りの私には、ひとつひとつの教会の特徴を思い出すことが困難である。その場所を記憶するために、写真を撮ったり、絵はがきや冊子を買ったり、周りの風景に目を凝らしたりはするのだが、記憶することはそう簡単ではない。福江島では井持浦(いもちうら)教会、貝津教会、三井楽(みいらく)教会、水ノ浦教会、楠原教会、堂崎教会と6つの教会を廻ったが、私のような人間には、建物の外観と内部の構造がどうしても似通って見えてしまうので、最初に訪ねた井持浦教会と最後に訪ねた堂崎天主堂、それに今回初見の映画『くちびるに歌を』(2015年)の舞台となった水の浦教会を除くと、他はもうぼんやりとしている。
翌日の中通島でも、桐教会から始まって、冷水(ひやみず)教会、青砂ヶ浦教会、曽根教会、頭ヶ島(かしらがしま)教会、鯛ノ浦教会とやはり6つの教会を巡ったが、ここでは映画『男はつらいよ 寅次郎恋愛塾』(1985年)に登場する青砂ヶ浦教会と、私が途中の石段で足を踏み外して横転した頭ヶ島教会ぐらいしか記憶にない。人前で転倒したのでかなり恥ずかしかったが、怪我でもして一行に迷惑をかけないで済んでよかったと思うべきか。膝をすりむいたが、ポケットの中のカメラもスマホも無事だった。映画の方は今回あらためて見直したのだが、急逝することになるクリスチャンの老婆(初井言榮)が、何とも印象深かった。
上記のように、合わせて12の教会を巡ったわけだが、宗教と縁の薄い私は、どうしても意匠として教会を眺めてしまいがちである。いくつかの例外を除いて、五島の景観に溶け込んだそれぞれの教会が何とも美しかったからである。年寄りのこともあって、なかなか記憶に定着できないなどとぼやいていたら、周りの方からそれでいいのではないかと慰められた。ところで、今回廻ったこれらの教会は、そのほとんどが島の端の海側や小高い場所に建っていた。そうしたところに、教会を信仰の縁(よすが)としたいと思っている信者の人々が集まって暮らしているからであろう。その理由についても次回触れてみたい。
(追 記)
同じ団地に住む知り合いのKさんが、5月12日に心筋梗塞で亡くなった。あまりにも突然の訃報である。私は、ペットと暮らしている団地内の人々の集まりである「ペットクラブ」で、彼と知り合った。まだ数年の付き合いに過ぎない。寡黙な人だったので、自分の過去をあれこれと語ったりはしなかったが、静かであるが故にどこか人柄の良さを感じさせた。いろいろな事情もあったようで、一人でペットと暮らしていた。ペットの名前はルナといった。
寂しかったからであろうか、よく「飲みに来ませんか」と誘われた。そのうち彼の家が「ペットクラブ」有志の飲み会の場となった。仲間が集まった時、Kさんはいつも何だか嬉しそうだった。そんな彼を見ていて私も嬉しかった。先月のブログ「緑蔭に遊ぶ」にも、Kさんとして登場している。亡くなって亡骸(なきがら)は土に還り、魂は昇天したのかもしれない。私の部屋からはKさんの家が見える。昨晩眺めたが部屋は暗いままだった。
PHOTO ALBUM「裸木」(2023/05/16)
福江にて(1)
福江にて(2)
福江にて(3)