年の瀬を前にして

 今年も残すところあと僅かとなった。1週間もすればもう新年である。年が改まる前に、このブログでも今年に一区切り付けておきたくなった。つまり、新年を迎えてから前年の出来事を投稿するのではなく、今年の出来事は今年のうちに投稿しておこうと思ったのである。こうした区切りの感覚とはどういうものなのだろう。ブログを書いていると、季節の移り変わりに少しは敏感になる。しかしながら、年の所為もあって、曜日の感覚や月日の感覚は徐々に曖昧になってきつつある。そして、時間の区切りというものがぼんやりしてくると、自分自身の存在が不安定化するようにも感じられるのである。

 そんなわけで、せめて年の区切りぐらいははっきりさせたいと思ったりした。この間ため込んだ新聞を整理し、毎年書き足している自分史の年表に今年の特記事項を記し、メールの返事や礼状を書き、今年撮った写真の現像に出掛けてアルバムを整理したりしていると、瞬く間に時間が過ぎていく。もうすぐ年賀状の印刷にも取り掛からなければならない。師でもなくなったのに、やはり師走ということなのか(笑)。年賀状は別として、それ以外のことは別に今やらなければならないことではないので、放っておいたらいいではないかという意見もあろう。そうかなと心の片隅で思いながらも、それができない自分がいる。神経質な質の人間だからであろう。よく言えば繊細ということにはなるが…(笑)。

 その他にも、年末になって新たにやるべきことが生まれた。歯の治療に出掛けたり、傷つけたクルマを修理に出したり、不調となったパソコンへの対応が必要となった。クルマの方は年末で予約が立て込んでいるので、年が明けてからの修理となったが、大事なのはパソコンの方である。ブログが書けなくなってしまった。勿論閲覧もできない。近くのパソコンショップに持ち込んだが、埒があかなかった。サーバーの側の問題のようなので、契約している会社と電話やメールで遣り取りしたが、素人の私ではうまく指示通りに対応できない。

 困り果てて、ホームページを立ち上げる際にお世話になった伊東さんに泣き付いたところ、たちどころに解決してくれた。何ということだろう。専門家はほんとうに大したものである。この間5日ほどブログの文章を綴ることもアップすることもできなかったが、ようやくブログ三昧の生活に戻って、落ち着きを取り戻した。例えて言うと、無くした大切な物が見付かってほっとしたと言ったところか。やはり「普通」が一番なのであり、その「普通」を大事にしたいのである。そんな思いは年を経て更に強まっている。

 いささか不安定な気持ちでいたためなのか、この間あれこれの笑える失敗が続いた。店で買い物をして代金だけ払って買った物を受け取るのを忘れかけたり、逆に、買った物だけ持って代金を払うのを忘れかけたりした(惚けた振りをしたわけではないー笑)。百円玉の代わりに1円玉を出したこともあった。極めつけは、手袋紛失事件である。私はすっかり禿げ上がったので、禿げ頭を隠すために数年前からハンチングを愛用している(笑)。知り合いと昼食をとった際に、そのハンチングに手袋を入れておいたのだが、それを忘れて店を出る時に入れたまま被ってしまった。何処に忘れたのだろうとあちこち探したが、見付からない。諦めかけたところ、その捜し物は何と頭の上にあったという次第である。いかにも間抜けで頓馬な年寄りではないか(笑)。

 10月末の総選挙の結果を受けて、かながわ総研の事務局長の石井さん(俳号は暮雪)からメールをもらった。前段にあった政治の話については、書き出すと切りがないような気もするので、ここではあえて割愛し、「さて」以下の文章のみをそのまま紹介しておく。そんな気になったのは、受け取ったメールを読んで嬉しく感じたからだし、そしてまた教えてもらうことも多々あったからである。

 ブログの「早淵川の源流を探して」を興味深く拝読いたしました。なかなか文章のテンポが読みやすくて楽です(論文だとこうはいかないでしょうが)。読みながら思い出したのは永井荷風の随筆の「葛飾土産」という小品です(『荷風随筆集』(上)岩波文庫)。荷風が晩年千葉県の市川市に数年居住していたころに書いたもので、小生の実家も市川でしたので懐かしい場所が描かれていました。また同じ随筆集で「放水路」という小品も佳作です。先日、岩波文庫の『久保田万太郎俳句集』を求めました。俳人の恩田侑布子氏の編で、彼女の解説もなかなか面白く読みました。やはり万太郎は名手ですね。妙蓮寺の句会はずっと郵送で続いていますが、やはり緊張感が今一つありませんね。                  突き出しの焼き銀杏の小鉢かな                                                     烏瓜置き去りにした夢一つ  暮雪                                                                                                    

 石井さんのメールを受け取って、早速荷風の随筆集を買い求めたことを知らせた上で、次のような返事を書いた。その一部だけ紹介しておく。「『置き去りにした夢』は一つどころか二つも三つもある小生ですが、晩年に近づくと置き去りにしたものが気になるんでしょうね。老境を詠まれた句かと思われましたが、赤く変わった烏瓜の姿が寂しさを和らげているようにも思われました。二つの配置、二つの対照の妙に、相変わらず上手いなあと感じました。褒めすぎでしょうか(笑)。」

 教えてもらった上下二冊の『荷風随筆集』(岩波文庫、1986年)を手にして、まずはお薦めの「葛飾土産」と「放水路」を読んでみた。私はしばらく前に、「早淵川の源流を探して」や「早淵川の河口へ」と題した文章をこのブログに投稿している。散策で心に兆した感懐のようなものを書き留めておきたかったからである。勿論ながら、私の感懐などどれ程のものでもない。だが荷風の作品には、そうした感懐が凝縮されたうえに、あまりにも流麗かつ端正な文章となって登場していた。紹介してみる。

 市川の町に来てから折々の散歩に、わたくしは図らず江戸川の水が国府台(こうのだい)の水門から導かれて、深く町中に流込んでいるのを見た。それ以来、この流のいずこを過ぎて、いずこに行 くるのか、その道筋を見きわめたい心になっていた。 これは子供の時から覚え初めた奇癖である。何処ということなく、道を歩いてふと小流れに 会えば、何のわけとも知らずその源委(げんい)がたずねて見たくなるのだ。来年は七十だというのにこ の癖はまだ消え去らず、事に会えば忽ち再発するらしい。雀百まで躍るとかいう諺も思合されて笑うべきかぎりである。(「葛飾土産」)

  放水路の眺望が限りもなくわたくしを喜ばせるのは、蘆荻(ろてき、あしとおぎのこと)と雑草と空との外、何物をも見ぬ ことである。殆ど人に逢わぬことである。平素市中の百貨店や停車場などで、疲れもせず我先きにと先を争っている喧騒な優越人種に逢わぬことである。夏になると、水泳場また貸ボート 屋が建てられる処もあるが、しかしそれは橋のかかっているあたりに限られ、橋に遠い堤防には祭日の午後といえども、滅多に散歩の人影なく、唯名も知れぬ野禽(やきん、野鳥のこと)の声を聞くばかりである。

  堤防は四ツ木の辺から下流になると、両岸に各一条、中間にまた一条、合せて三条ある。わ たくしはいつもこの中間の堤防を歩く。 中間の堤防はその左右ともに水が流れていて、遠く両岸の町や工場もかくれて見えず、橋の影も日の暮れかかるころには朦朧(もうろう)とした水蒸気に包まれてしまうので、ここに杖を曳く時、わ たくしは見る見る薄く消えて行く自分の影を見、一歩一歩風に吹き消される自分の跫音を聞くばかり。いかにも世の中から捨てられた成れの果だというような心持になる。(「放水路」)

 上記のような文章を味わっていると、いつの間にか他の随筆も読みたくなってくる。何処かに心惹かれるところがあるからなのだろう。編者でもある野口冨士男の解説などを頼りに、「葡萄棚」や「妾宅」なども読んでみた。いずれも実に味わい深い名品である。名前だけしか知らなかった『日和下駄』にまで、目を通すことになってしまった。随筆集を紹介してくれた石井さんに感謝するしかない(彼も只者ではない、なかなかの曲者である。ー笑)。

 明治の終わりに書かれた「妾宅」では、「珍々先生」などという何やら怪しげな名前の主人公を登場させて、荷風は次のように呟いている。そのかすかな響きは、声高に喋り散らす人種ばかりが跋扈(ばっこ)したあまりにも薄っぺらな現代の日本社会を、鋭く切り裂くかの如くである。今年の年の瀬を飾るに相応しい一文と言うべきか。

 そういう明い晴やかな場所へ意気揚々と出しゃばるのは、 自分なぞが先に立ってやらずとも、成功主義の物欲しい世の中には、そういう処へ出しゃばって歯の浮くような事をいいたがる連中が、あり余って困るほどある事を思返すと、先生はむしろ薄寒い妾宅の置炬燵にかじりついているのが、涙の出るほど嬉しく淋しく悲しく同時にまた何ともいえぬほど皮肉な得意を感ずるのであった。(「妾宅」)