年があらたまって
公私ともにいろいろあった2023年も過ぎ去って、2024年の年明けである。世界は戦争と虐殺が続いたままで止む気配も見えないし、衰退途上国と化した日本は日本で、裏金スキャンダルの底なしの拡大と、湯水の如くに公金を費消するカジノがらみのいかさま万博でてんやわんやの様相だから、今年が取り立てて良い年になりそうな気配などまったく見えない。もうほとんど用無しとなった年寄りの私などは、世の中こんなものだろうなどと達観した振りをして生きていくしかあるまい(笑)。自作の句「一人居て 諦めもせず 冬構え」の境地である。あるいは、幻想も抱かず幻滅もせずといったところか。
上の娘から、クリスマスパーティーをやるから来ないかと誘われたので、暮れの24日に家人と連れ立って顔を出してきた。前日にいささか気持ちが塞ぐような出来事があったばかりだったから、気分転換のつもりで喜んで出掛けた。滅多にない楽しい時間を過ごしたが、家人と二人だけで自宅にいてはこうはならなかっただろう。そう言えば、昔々子ども達が小さかった頃には、我が家でもクリスマスパーティー毎年をやっていた。豪華な料理が食卓に並んだわけでもないし、立派なプレゼントがあったわけでもない。だが、手製の飾り付けがあったり、あっちこっちからかき集めた景品がたくさん並んだり、そしてまた参加者全員のあれこれの余興があったりして、実に楽しかった。あの頃は何と幸せな時間に満ち満ちていたことだろうか。
そのうち、年老いた家人の両親を正月に我が家に呼ぶようになった。それまではわれわれが両親の家に顔を出していたのだが、義母も、お節料理を作って客人をもてなすことが難しくなったようなので、我が家に招待することにしたのである。人を招待するとなると、あれこれと準備が必要である。若い時にはそれが愉しみになったりもするが、年齢を重ねると今度は逆に負担にもなる。そこで、招待する側から招待される側に立場が入れ替わったわけだが、こうした変化は、少し大袈裟に言えば主客が転倒したことを象徴しているようにも見える。今回招待されたのは、こちらがそれだけ年老いたということでもあるのだろう。
娘の家への行き帰りにはタクシーを利用したが、その車内で昔のことがあれこれと思い出された。今回自分たちが招かれる側になってみて、時代が一巡りしたのだという感慨に囚われたからである。日々の変化、月々の変化、年々の変化はさほどではないように思われるのだが、ある時事態は大きく動くのである。「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」といったことなのであろう。両親は子どもたちがいる我が家に招かれて嬉しそうだったが、こんなことも親孝行の一つだったに違いない。狭量で狷介で頑固な私なので、家人の両親との間にもところどころで軋轢が生じたが、両親が亡くなった今となっては、もはやすべてが過去の出来事である。
正月の2日には、上の娘一家と次男が我が家に顔を出してくれた。お節料理などはもう作れないので、注文した物を並べてそこに手料理を何品か添えるぐらいである。小僧二人はお年玉を愉しみに顔を出したに違いなかろう。翌3日には、今度は下の娘から家に遊びに来ないかと誘われている。こちらの小僧も小娘も同じようにお年玉を愉しみにしているのだろう。二人の出し物を見せてもらったり、凧揚げやゲームをやる予定である。ここでも、普段の生活ではなかなか体験できない時間を過ごすことになるに違いない。小僧や小娘もいつの間にか大分大きくなっている。
私と家人は、子育てに関して似たような考えを持っている。お金やおもちゃやお菓子をふんだんに与えて、小僧や小娘たちの歓心を買おうなどとはさらさら思っていない。昔から奢侈や華美や贅沢に対しては懐疑的だった。直ぐに欲しがり、直ぐに飽き、直ぐに捨てるような暮らしに、かなりの違和感を覚えているのである。少ない物を何時までも大事に使い、もっと質素に暮らしてもいいのではあるまいか。こんな偉そうなことを書きながら、さてでは自分はどうなのだろうかなどと思ったりもした。「言うは易く行うは難し」である(笑)。
暮れから正月にかけての最も大きな出来事は、上記のようなことなどよりも、私が年賀状による新年の挨拶を今年で終えたことであろう。そのことに関して、いまさら特別偉そうなことを言いたいわけではない。老境も深まってきて、いつの間にかそんな気分になったとでも言うしかない。もしも付け加えるならば、これまでは年賀状にもだらだらと一文を草していたが(それが野暮だと言われたこともある-笑)、しょっちゅうブログに雑文を書くようになってしまったので、私にとっての年賀状の役割が大分小さくなってしまったこともあったかもしれない。あるいはまた、これまで年賀状を遣り取りしてきた知り合いのほとんどの方には、老後の道楽で作成しているシリーズ「裸木」を贈呈させてもらっており(こちらが勝手に送りつけているだけなのだが)、そうした繋がりはこれからも元気なうちは続けようと思っているので、年賀状の遣り取りを終えやすかったこともあったかもしれない。
先のようなつもりでいたものだから、年末に自分から年賀状を書かずに、最後の年賀状を出す準備だけ早めに済ませておいた。年が明けてから、受け取った年賀状への返事として以下のような文面のものを送った。これが最後の年賀状である。最後だと思うと、一抹の寂しさを感じないでもない。年少の頃からのかなり長期に渡った年賀状との付き合いだったから、そこにはさまざまな思い出が溢れており、ここにはとても書き切れない。「明けましておめでとうございます 本年も何卒よろしくお願い申し上げます」とのいつもの挨拶の後に、以下のような文章を印刷した年賀状に住所だけ書き加えた。
皆様もお元気に新たな年を迎えられたことと思います。 春になれば、私も退職後7年目の日々に入り、誕生日が来れば喜寿を迎えることになります。 そこでこれを機に、 まことに勝手ながら、そろそろこの辺りで年賀状の遣り取りを終えさせていただこうかと思っております。長い間お付き合いいただきましたことに対して、 あらためて心からのお礼を申し上げます。 なお、小生の新年の挨拶は、「敬徳書院」のホームページ内にある 「店主のつぶやき」欄に載せておきますので、 もしもご覧いただけるようでしたら、たいへん幸いに存じます。皆様のこれからが、 末永く平穏無事でありますことを心から願い、私からの最後の新年のご挨拶とさせていただきます。どうもありがとうございました。
これからは、蒼き空の広さと深さに心を奪われ、日々自在に姿を変える雲に憧れ、頬を撫でる柔らかな風に季節の移ろいを感じながら、ゆったりとした気分で人生の暮れ方を過ごしていくことになるのだろう。時には夜空の星を見上げて、亡くなった人々のことをふと思い出したりもするのかもしれない。年寄りにとっての豊穣や愉悦や自適とは、そんなものなのではあるまいか。しかしながら私のことだから、「昴」の歌詞にあるように「されど我が胸は熱く 夢を追い続けるなり」と心中で呟くぐらいの埋み火は、もしかしたらこれからも残り続けるのかもしれない。最後の年賀状を何枚か纏めてポストに投函したら、微かに小さな音が聞こえた。この私には、それも時代が動いた音のように思われた。
元旦の銭湯からの帰りに
胸のうち 確かめ仰ぐ 冬の闇
PHOTO ALBUM「裸木」(2024/01/03)
暮れから正月へ(1)
暮れから正月へ(2)
暮れから正月へ(3)