家を売る(二)
そして、2018年に勤務先を定年退職し、これを機に研究者の仕事からすっかり足を洗うことにした。自分出版社を立ち上げ、ホームページを作成し、今ここに書いているようなものをブログに投稿し、さらにはそれをもとに冊子などを作ってみたくなっていたからである。繰り返し書いているように、たんなる老後の道楽である。そうなると、仕事部屋に置いてあった研究書や雑誌や資料の類はすっかり不要となる。個人的に大事にしているものだけはもちろん残したが、それ以外のものは、何回かに分けてすべて処分した。本の処分はたいへんな作業のような気もしていたが、送ってもらった段ボールに入れて玄関先に置いておけば、その日のうちに集荷にも来てくれる。実にあっけない作業であった。
定年後は当然ながら年金暮らしに入るので、「身の丈」に合った暮らしに切り替える必要もあった。今風に言えば、いわゆるダウンサイジングということになる。仕事をしなくなったのだから、仕事部屋が不要となるのは理の当然であろう(笑)。これもまた断捨離と言えば言えなくもないが、身の回りの衣類や食器、小物などを処分するのとはわけが違う。子供に譲ってもいいかと思ってもいたが、子供たちも、既にそれぞれ家を持っていたこともあるし、あるいはまた気儘な暮らしをしたかったようで、5階を欲しいという者は誰もいなかった。できることなら、部屋でではなくお金でもらいたいとでも思っていたのかもしれない(笑)。そんなこんなで、5階の部屋を売りに出すことにした。そう決めたのは定年退職した翌々年の2020年初頭のことだから、仕事部屋はほぼ15年ほど活用したことになる。もっと長かったようにも感じていたが、考えてみるとそれほどの期間ではない。こうして、勝手気ままに暮らしていた私の仕事部屋時代は終わりを告げた。
部屋は十分に広いし、3面に窓がある角部屋だし、最上階の5階だから天井も高いうえに屋根裏部屋(今はロフトと言うらしい)もある。ベランダや窓からの見晴らしも悪くはない。私にはそれほどの興味はなかったが、富士山も見える。購入時にリフォームしただけではなく、気に入った部屋にするために途中であれこれ改装したので、落ち着いた小綺麗な部屋の姿を今も維持している(と私は思っている-笑)。そんなわけだから、こうした部屋を気に入ってくれる人は、それほど間を置かずに現れるだろうとかなり安易に考えていた。そこで、売却予定価格がもっとも高かった不動産業者に仲介を頼んで、売りに出すことにした。2020年2月のことである。後で気が付いたことだが、この仲介業者にゼミの卒業生であるT君が就職していた。それがどうしたというわけではないが、まあ不思議な縁ではある。
そんなわけで、話はすんなりと纏まるのではないかと思っていたのだが、現実はそうではなかった。仲介業者と相談して決めた価格では、なかなか買い手は現れなかった。コロナ禍の影響もあったかとは思うが、主要なネックはそこではなかった。エレベーターのない5階という条件が、まだ子供の小さい若夫婦にはあまりにも不便であり、二の足を踏まざるを得ないようだった。付け加えておけば、こちらは既に3階に住んでいるので、慌てて売らなくてもいいなどと高を括っていた所為もある。訳も分からずに強気だったということか(笑)。何組かの方が見学には来た。その都度私が対応したが、見学止まりで購入してもらうまでには至らなかった。
私には、最上階の5階であれば誰にも煩わされず気持ちのいい暮らしが出来そうに思えたのだが、小さな子供を抱えて日常生活を送ろうとすると、やはり上り下りがたいへんだという気持になるのであろう。高齢の人は、勿論ながら見にも来ない。駅もスーパーも学校も近いし、団地の周辺には緑も多いが、そうした立地条件の良さだけでは人気の部屋とはならないということか。私のように「仕事部屋」や「別荘」感覚で使うのとは訳が違うからである。新たに住居を購入しようとする人にとっては、日常の暮らしこそが大切なのであり、今は1階や2階の方がずっと人気があるとのことだった。5階でもかまわないという人は、子供も少しは大きくなった中堅の世代の人々であり、そうなると購買層の範囲は大分限られてくる。
新築のマンションの高騰振りはすさまじく、かなりの高所得の人でなければ最早手を出すことは出来ない。この間日本経済は不振を極め、長期にわたって賃金の下落が続いてきたから、まだそれほど収入が高くはない若い人々は中古マンションに向かうことになる。だから中古マンションに対する需要はあるのだが、日常生活を考えると5階では買いにくいということのようなのである。いささか浮世離れした私のような人間でも、しばらくしてその辺りの事情がよく分かってきた。そうなれば、購入者を見付けるためには価格を引き下げるしかない。細かいものを含めると、3回ほど売却価格を引き下げた。エレベーターのない5階の部屋というディメリットを、価格を引き下げることで補うことにしたのである。