家を売る(三)

 そうこうしているうちに、今年に入って購入を希望される人が何人か現れ始めた。そのうちの一人は同じ団地に住むMさんで、深い仲ではないが顔も名前もよく知っている人だった。団地の自治会の会長をやった方である。私も少しばかり自治会の仕事に携わったので、その縁で知り合ったのである。ここにも妙な縁があったことになる。見学に来られた人のなかには、こういう人に買ってもらえたらと思う人も何人かいたが、逆にそうではない人もいた。身の程を知らぬ言い方をすれば、この後同じ階段の住人となるので、買ってくれるなら誰でもいいという気にはなかなかなれなかったのである。その点、Mさんは最適の人だった。購入までに何度か顔を合わせる機会があったが、若いのに何時も折り目正しく物静かで落ち着いた雰囲気の人だったからである。

 購入したいと思っているとの電話をもらったのは、私が研究所の調査旅行に出掛けていた3月末のことである。大阪の住吉大社からの帰りに、最寄りの駅のホームにいて、彼から部屋を一度見学したいとの電話を受けた。その後話はトントン拍子に進み、翌4月には契約書を取り交わした。Mさんご夫婦が5階の部屋を気に入ってくれたので、嬉しかった。事態は、進まない時にはなかなか進まないものだが、進むとなると一気に進む。世の中の動きなども、そんなものなのかもしれない。

 こうして5階の部屋を手放すことになったのだが、そうなってようやく一抹の寂しさを感じた。私の仕事部屋時代が終わったことを、初めて現実として受け止めなければならなくなったからである。「身の丈」に合った暮らしにすると言えば格好好く聞こえるが、それは過ぎ去った時間を、心の中に想い出として封印していくことでもあるだろう。自分の「身の丈」は、他ならぬ自分が一番よく知っているわけだし、そうであれば自分で合わせるしかあるまい。これからも「身の丈」に合わせていこうとすれば、そうした決断が絶えず続いていくことだろう。
 
 7月に入ってMさん一家が転居してくることになったので、その前にこちらの方も5階に残されたものをすべて3階に移動した。家人は壁や空間を大事にしている人間なので、移動を機にあらためて不要となった家具類を処分した。この処分も、何ともあっけなかった。電話一つで業者が現れ、あっという間に運び出してくれたからである。処分するに当たって部屋を眺め回したが、そんなことをしているうちに、大事なものはそれほど多くはないことにあらためて気が付いた。3階に置いてあった本なども、ブログを書くのに使えそうなもの以外は、この機会にすべて手放した。to haveではなくto doへと身の処し方を切り替えることにしたのである。

 所有することから離れてみると、余分な物が無くなって周りがさらにすっきりしてきた。確かに寂しさは残ったが、あとは自分の道を歩むのみである。私の好きな山頭火の句ではないが、「この道しかない春の雪ふる」といった気分である。他に処分すべきものとして残っているのは、たいして使わなくなったクルマであろう。先月、奥の歯が痛むので歯医者に行ったところ、抜歯するしかないとのことだった。歯まで断捨離した気分だった(笑)。 

 かの『方丈記』には、「人を頼めば身他のやつことなり、人をはごくめば心恩愛につかはる。世にしたがへば身くるし。またしたがはねば狂へるに似たり。いづれの所をしめ、いかなるわざをしてか、しばしもこの身をやどし玉ゆらも心をなぐさむべき」とある。誰かを頼りにすれば、自分が失われてその人の指図を受けることになる。誰かの面倒を見れば、愛着する気持に縛られる。世間の言うとおりにしていると不自由で苦しいし、逆らえば頭のおかしな人間に思われるというのである。

 そうであるならば、せめてしばらくの間この身を気儘に寛がせ、好き勝手にブログでも綴っているしかなかろう。ある知人は、残されたものは死後に一切合切処分してもらえばそれでいいのだと語っていたが、私にはそれがどうしても出来ない。子供たちに迷惑を掛けるというようなことではない。最後まで、自分で自分の「身の丈」に合わせながら生きてみたいのである。自分の人生を我が眼で見届けるとでも言おうか。こうして現代の方丈(約3メートル四方の広さのこと)暮らしに入ったのであるが、しばらくすれば、それもまた愉しなどと言えるようになる、そんな予感がしないでもない。

 売買契約書を取り交わすために仲介業者のオフィスに出向いた折に、帰り際に元ゼミ生のT君が顔を出してくれた。担当の方が気を利かして呼んでくれたのであろう。T君もいつもの笑顔で喜んでくれた。相変わらず素直な好青年である(笑)。なかなか売れなかったので、彼も心配してくれていたのかもしれない。聞けばもうすぐ結婚するとのことだった。これを機に新しい人生が開けていくはずであり、私とは逆にそのうち家を買うことになるのだろう。昔ゼミ合宿で学生たちと麻雀卓を囲んだことがあったが、その折に、まだ覚えたてで興味津々の彼も参加していた。急にそんなどうでもいいことを思い出した(笑)。