名画紹介⑤「一命」

 今回は、三池崇史監督の「一命」を取り上げることにした。タイトルは、「生きて、ただ春を待っていただけじゃ」とした。原作は滝口康彦の「異聞浪人記」である。この作品は新潮文庫の『上意討ち心得』(1995年)に収録されている。この原作にもとづいて、すでに半世紀以上も前に、「切腹」というタイトルで小林正樹監督が映画化しており(主演は仲代達矢)、世界的にも高い評価を得たことはよく知られている。

 そうであれば、形の上では「一命」は「切腹」のリメイク版だということになるのだろう。しかしながら、原作を読み、二つの映画をあらためて見直してみると、「一命」は前作の「切腹」を優に凌いでおり、リメイク版などとは言わせないほどの素晴らしい出来映えである。それぞれのタイトルにも、監督の関心の違いが示されているようで、何とも興味深い。私はと言えば、もちろん「一命」にこそ原作者の意図は貫かれているように思う。

 この映画は、武家社会と武士道なるもののあまりにも酷薄な有り様を、まさに「一命」を賭して問う一人の浪人者、津雲半四郎(演ずるのは市川海老蔵)の物語である。三池監督らしく悲しく熱く激しい映画であり、格差と貧困にあえぎながらも静けさを保ち続ける現代の日本社会に、監督の思いの丈をぶちまけ、虚飾と欺瞞に満ち満ちた世の中を激しく揺さぶるかのような作品に仕上げられている。

 困窮と切腹、そして抵抗

 時は江戸時代の初頭、幕府により大名のお家取り潰しが相次ぎ、奉公先を失った武士たちは浪人の身となる。彼らは、暮らしに困窮した果てに、裕福な大名屋敷の前で「狂言切腹」を願い出るようになる。切腹に名を借りた体のいいゆすりではある。ある日井伊家に切腹を願い出たのは、津雲半四郎の娘の夫、千々岩求女(ちじいわ もとめ)である。子供が高熱を出して苦しんでいても医者にみせる金がない。妻も病気だが、滋養のある食べ物もろくに買えない。背に腹は代えられず、刀などはとうに売り払っており、差しているのは竹光。その彼が切羽詰まって「狂言切腹」に走るのである。

 武勇の誉れ高い井伊家では、「狂言切腹」などを許しておくと癖になるということで、金を払って追い払わずに、刀が竹光であることを重々知りながら、武士に二言はないと求女に無理矢理切腹させるのである。求女の後を追うかのように、孫も死にそして娘も自害する。こうして半四郎は天涯孤独の身となるのである。この辺りは、観ている方が胸苦しくなるようなシーンの連続である。

 この半四郎が、求女と同様に井伊家の門前での切腹を願い出て、井伊家の家老齋藤勘解由(さいとう かげゆ)や家臣たちと単身で対峙する。半四郎の、まさに一命を賭した戦いがここに始まるのである。彼は切腹の場で周りを囲む家臣たちを一喝する。運命のいたずらで浪人の身となり果て、「狂言切腹」まで願い出ざるを得なかった求女を哀れと思うものは、この場に誰一人としていなかったのかと。

 激しい斬り合いのなかで、タイトルに掲げた科白が登場する。「乱心者めが」と罵倒する勘解由に対して、半四郎は「生きて、ただ春を待っていただけじゃ」と呟くようにうめく。彼の無念を表して余りある科白である。乱闘のなかで、井伊家の象徴である赤備えの鎧兜がバラバラに壊れるのであるが、しかしそれも、半四郎が死ねば何事も無かったかのように修復されてしまうのである。半四郎の怒りを受け継ぐべきなのは、誰あろうわれわれではないのか、映画はそのことをも問うているように思われる。

 ところで、冒頭で原作の「異聞浪人記」に触れたが、この作品は、2011年には映画と同じ『一命』というタイトルとなって講談社文庫にも収録された。映画人気を当て込んだのであろう(笑)。この文庫本のあとがきで、文藝評論家の末國善己は、作者の滝口康彦について次のような興味深いことを書いている。

 「戦時中に防府海軍通信学校に配属された時、滝口は、上官が暴力で部下を服従させている現場を目撃したという。さらに、復員後に佐賀県内の炭鉱で働き始めた際には、親族に共産党のシンパがいたことを理由に、レッドパージの対象となり解雇されている」。初めて知った事実である。「戦時中の暴力支配、戦後の経済合理性をに基づく社員の切り捨ての両方を経験した滝口は、日本の繁栄が、弱者をかえりみないことでかろうじて成立している見せかけに過ぎないことを見抜いていたのではないか」 。それ故、「滝口の士道小説には、武士道を礼賛するヒロイズムなど出てこない」と。

 こうした文章を読むと、映画「一命」が問うているものが、否が応にも鮮明になってくる。私がこの映画を強く推す所以である。

 

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