名画紹介①「砂の器」

 少し前に投稿した「『敬徳書院』の一年」でも触れておいたが、労働者教育協会が出している『学習の友』の編集部の丸山さんからの依頼があって、この雑誌の「名画紹介」欄を一年間に渡って担当することになった。既に労働問題の研究者を廃業し、道楽の雑文書きに転じたつもりなのだが、そんな私にこうした形で原稿依頼があるとは予想もしなかった。嬉しい限りである。そんな訳で、私は今柄にもなくはしゃいでいるのである(笑)。

 連載はこの10月から始まるのだが、担当する欄はたかだか1ページ、字数にして1,000字程度の短い文章なので、たいしたことは書けない。またたとえ字数にもっと余裕があったとしても、当の私にはたいしたことを書くだけの力も無い。そんな訳だから、惚け防止のつもりぐらいの軽い気持ちで、書き継いでみようと思っている。

 もっとも、たとえ短い文章ではあっても、文章を書こうとすると、僅かではあれどこかに工夫を凝らしたくはなる。名画紹介なのだから、どのような映画を取り上げるのかをあれこれ考えることになるのは言うまでもないが、それだけではなく、タイトルにもちょっとばかり拘ってみることにした。どんな拘りかというと、映画に登場する科白をタイトルにすることにしたのである。

 第1回目に取り上げた作品は、「砂の器」(1974年、監督・野村芳太郎)である。もう一度映画を見直してみて、タイトルを「それも、あげな思いをしてきた親と子だよ」とすることにした。この映画のエッセンスは、まさにこの一言に込められているような気もしたからである(映画のどこに登場するのかは、見てのお楽しみ-笑)。以下の文章が雑誌に載るものである。実際には、1ページに収めるためにここから少しばかり削られているが、その辺りは了解願いたい。

 これから1年間、計12回に渡って、この「名画紹介」欄を担当することになった。本誌の読者である若い方々に、名画というものは、ストーリーの面白さの中に奥行き深く人間を描き出しており、それ故に何度見ても飽きないものなのだということを、伝えられればと願っている。労働組合運動にも似たようなところがあって、面白くなければ運動は長続きしないし、人間をちゃんと理解していなければ組織は広がらない。そんな気もする。

 最初に断っておくが、筆者の私は、映画に関しては「通」でもなければ「マニア」でもない。ごく普通の一人の映画ファンに過ぎない。それ故、読者があっと驚くような映画を紹介する気もないし、ドキっとするような解説を書くつもりもない(そもそも、やろうとしても残念ながらできない-笑)。「通」や「マニア」にはその手の人が多いようにも思われるのだが、そうした人は私の好みではない。

 この欄で12本の映画を紹介するにあたって、邦画6本、洋画6本を取り上げることとし、それぞれの6本のうちの3本は大半の大人が知っているような古典的な名画を取り上げ、残りの3本は比較的現代の作品を取り上げることにした。古典というものは敬して遠ざけられることが多く、とくに若い人は案外見ていない。古臭いといった先入観に囚われているからであろうか。たまには古典と言われる名画をじっくり見る機会があってもいい。

 初回は、映画の醍醐味を文字通り肌で感じてもらえる作品として、「砂の器」を取り上げてみた。この映画は、ある殺人事件を担当した二人の刑事の、捜査にかける執念から描き始めるのであるが、その過程で浮かび上がってくるのは、ハンセン病を病んだが故に村を追われ、各地を放浪することになる父と子の宿命とも言うべき絆である。その絆を断ち切って、音楽家として上流社会に浮かび上がろうとする子の蹉跌(さてつ)が描かれていく。

 原作は松本清張の同名の長編小説であるが、この映画は、犯人の過去を各地に追って最後まで飽きさせない脚本の緻密さと、日本の四季を背景に放浪を続ける二人を追ったカメラワークの素晴らしさによって、原作を優に凌いでいる。クライマックスで流れる「宿命」も圧巻。

 折しも、ハンセン病患者の家族に対する国家賠償請求が認められ、政府も謝罪した。そうしたことを背景に鑑賞すれば、この映画は更に味わい深いものとなるはずである。