労働科学研究所のころ(一)
年を取ってくると、老い先が短くなったように感じられる所為なのか、今現在のことであれば別だが、先々のことには余り興味や関心が持てなくなってくる。その結果、昔のことを振り返ることが多くなるのである。店主の私も年寄りなので、同じようなものである。「後向き」と言われればまったくその通りなのだが、それでもいいんじゃないかといった、いささか居直りに似た気分もないわけではない。
世の中は至る所「前向き」だらけで(ポジティブやチャレンジ、アクティブ、プラス思考、未来志向といった物言いなども同じようなものであろう)、「前向き」じゃないと成功できない、勝てない、うまくいかないと脅かされているようでさえある。勝利至上主義のスポーツの世界があっちこっちに広がっているかのようで、何とも落ち着かない。「パンとサーカス」ならぬ「パンとスポーツ」ということなのか。「前向き」であることを余り信用する気になれないのは、基準なき状況追随、やみくもな精神主義、いたずらな熱狂、たちどころの忘却といった日本社会の宿痾(しゅくあ)と、どこかで通底しているように感じられるからなのかもしれない。「国難」に「立ち向かう」などと大仰に言い立てる人物が信用できないのも、きっとその所為だろう。
世の中には、「後向き」でもいいかと思っているような人間もいるはずである。そんな人間には何とも生きにくい雰囲気が充満しているのであるが、それがいささか鬱陶しい。今の私は、もっとゆったりしながら、ほどほどに暮らしていければいいんじゃないかなどと思っているので、「前向き」ばかりをよしとするような時代の風潮に馴染めなくなりつつある。「前向き」から求められることになるのが、結果や成果や効率やスピードなのであろう。経済のワードが社会を覆っているかの如くである。あるべき姿は逆ではないのか。こんなことを考えている人間は、時代遅れであるとも言えるが、格好を付けて言い換えるならば、反時代的であるのかもしれない。
人生というものは結構複雑に出来上がっているので、前も後もあるし右も左もある。そして、未来もあるが過去もある。さらには、うまくいくこともあるだろうが駄目な時だってある。当たり前と言えば当たり前の話ではあるのだが…。そんなわけで、社会にはびこる横並びの同調圧力に屈することなく、「後向き」の昔話を投稿することにした(笑)。一服の清涼剤となれば幸いである。
「店主のプロフィール」の欄にも紹介しておいたが、私は1970年10月から1985年3月まで、つまり大学を卒業後専修大学に転職するまでの15年間にわたって、(財)労働科学研究所(以下労研と略記)に勤めた。入所した時は、労研は世田谷区の祖師谷にあったが、ほどなくして翌年の4月に川崎市高津区の菅生の地に移った。専修大学生田校舎のすぐ近くである。その頃の思い出については、二度ほどエッセー風の文章を書いたことがある。
その一つが、2008年の「研究者としての『精神』と『姿勢』を求めて」(『労働の科学』63巻12号)であり、もう一つが、2011年の「労働社会生活研究の一断面」(『労働の科学』66巻12号)である。以下に投稿するのは前者の文章であり、後者については次回にでも載せるつもりである。事実の誤り等については直したが、文章は当時のままなので今の時点から見るとズレているところがあるが、その点はご了解願いたい。
なお現在の労研は、2015年に名称を公益財団法人大原記念労働科学研究所と変更して、東京都渋谷区に移転してる。菅生に残された建物は今では廃墟となっており、もはや誰もいないし何もない。そのうち取り壊されて、マンションでも建つことになるのであろうか。引っ越しが済んでしばらくした頃、懐かしく思って通勤の途中ぶらりと立ち寄ったことがある。通りに面した門から入り坂道を登ると、玄関前には立ち入り禁止の柵が置かれていた。ぼんやりと周りを眺めながら、その前でしばらく佇んでみた。伸び放題となった近辺の雑草が、廃墟の侘しさを際立たせていた。労研は新生労研としてこれからも続いていくのであろうし、またそう願ってもいるが、私にとっての労研は終焉を迎えたのかもしれない。そんな感慨にとらわれた。
あれこれ書き出すと、止まらなくなるのがいつもの悪い癖である。何だか「かっぱえびせん」のようである(笑)。いささか長すぎた前置きはこのぐらいにして、本題に戻ることにしよう。
●研究者としての『精神』と『姿勢』を求めて
私が労研に入所した頃
現在(2008年)私は勤務先の大学で、「労働経済論」や「ゼミナール」などの科目を担当している。今年のゼミでは、新学期早々にちくま新書の一冊武田晴人著『仕事と日本人』を読んだ。この本では近代的な労働観がどのようにして成立してきたのか、またそこにはどのような問題がはらまれているのかを、主に明治期以降の歴史研究の成果をもとにしながら論じているのであるが、読み進むうちに久しぶりに懐かしい思いにとらわれた。それは他でもない、このテキストには暉峻義等、藤本武、斎藤一、近松順一、下山房雄、大須賀哲夫の諸氏の研究成果や文献が登場していたからである。
私が労研に入所したのは1970年の10月である。当時の大学はいわゆる「紛争」で大荒れの状態であり、東京大学の入試中止が社会的な事件となってもいた。当時多くの学生がそうであったように、私もまたご多分に漏れず学生運動に没頭しており、さまざまな事情から4年では卒業できない状況にあったが、それほど豊かではない家計から仕送りしてくれていた親の手前もあって、留年ではなく学士入学という形で卒業後も大学に在籍していたのである。その年の夏休み前には何とか就職先を決めたものの、民間企業への就職がはたして自分にむいているのかどうかもわからないでいた。そんな時に、父親が藤本さんと知り合いだという友人から、労研で研究員を募集しているとの情報を得た。
ゼミナールでの卒業論文に「窮乏化論争」をテーマにした私は、「労働科学」についてはもちろん何も知らなかったが、「労働科学研究所」の「労働」に関心を抱いたこともあり、さらには「研究所」や「研究員」といった言葉の響きにも魅せられて、早速祖師谷の労研に藤本さんを訪ねた。当時藤本さんは廊下を挟んで別室に一人でおり、頭でっかちな私を諭すかのように言葉優しくいろいろな話をしてくれた。そして、最後には「賃金は安いですよ」ときっちり念を押された。その後向かいの部屋で近松さんや下山さんにも会った。二人とも当時からざっくばらんでまったく飾らず、誘ってもらった夜の飲み会でも話は弾んだ。私はこんな気さくな人々が働いている自由な雰囲気の労研に強く惹かれた。
縁あって採用ということになり、大学に在籍のままその年の10月に労研に入所した。翌年には労研は川崎に移転したから、私は祖師谷時代を1年にも満たない期間しか体験していない。そのために当時の記憶はかなりぼんやりしてきたが、石炭ストーブや黒光りした床、薄暗くて近寄りがたい実験室などは今でも忘れられない。労研を退職したのは1985年3月であるから、入所後15年に渡って労研に世話になった。
この間にプライベートな世界では、最初の子供が生まれて7か月で亡くなったりして、いろいろなことが起こったが、仕事に関しては嫌な思い出はまったくない。いつしか私は自分自身を「調査屋」と自己規定するようになったし、報告書を書くこともそれほど苦痛ではなかったので、労研の仕事は自分にはかなり向いていたのではなかったかと思う。この15年は私にとって仕事の上での青春時代そのものであった。
私が労研で学んだこと
入所してからしばらくは、仕事に慣れさせようとの配慮からか労研の出版物を読むように指示された。当時の私は、まともな勉強などほとんどしておらず、地道な調査よりも左翼的な論調の大所高所の議論にばかり目を奪われていたので、図表がやたらに多い『日本の生活水準』や『日本の生活時間』を読むのにいささか戸惑いを覚えた。
ただその頃の研究所では、所内の研究会でも所属する研究室でも「労働科学」論が真剣に論じられるような「ゆとり」があり、テーラリズム批判に端を発した「労働科学」の本質をめぐる論争などはなかなか興味深かった。当時の私はこうした議論が好きだったのである。「労働者階級」を論ずる前に「労働者」を知らなければならず、「労働者」を知るためには「労働」と「生活」について「調査」しなければならないこと、すなわち「実証」の重要性を身をもって知るようになるには、しばらく時間が必要だった。
入所当時は、それぞれの研究部に若手の研究員がけっこうおり、委託調査に追われるなかで研究所での研究のあり方に不満を抱いてもいた。そうしたことが背景にあって、同世代の集まりを持とうということになり、井上(枝)さんや酒井さんを中心に「労働科学を考える会」なるものが発足した。当然私も喜んで参加し、会の名称で何本かのエッセー風の文章を『労働の科学』に書いた。今あらためて読み返してみると、かなり生硬なものばかりで気恥ずかしいが、それでも当時の熱気だけは確実に伝わってくる。そうした場所で真剣に議論し、お互いに切磋琢磨したことが私の研究者としての土台の一端を作っていったのではないかとも思う。
当時の労研の「研究白書」によると、「労働科学は、現実の労働と生活をめぐる諸問題について、人間に関する生物学としての医学、心理学、ならびに理工学、経済学、その他社会科学の立場から研究を行い、法則性を発見し、いわゆる労働問題の解決に資することを目的として行われるところの、一つの応用科学」であるとされていた。私にとって新鮮だったのは、そうした規定に導かれて、現場との接触が労働科学にとり不可欠であること、研究者は社会的要請に敏感であるべきことが強調されていたことであり、さらに、こうした研究者のありようを支えるものが科学的ヒューマニズムの「精神」であり、labour orientedな研究「姿勢」であると述べられていたことであった。こうした「精神」や「姿勢」こそが、私が労研で学んだ最大のものではなかったか。
もっとも、年中財政難に喘いでいた研究所にとって、重要となるのは先の「精神」や「姿勢」を委託調査に具体化することである。それなしには飯は食えないからである。委託調査は、関連資料の収集から始まって調査票の設計や調査対象の選定、インタビューの実施、データの集計と分析、報告書の作成といった一連の流れからなるが、それらのひとつひとつを実際に委託調査に携わるなかで見よう見まねで覚えていった。藤本さんに現場に連れて行ってもらったり、下山さんの調査を手伝ったりするなかで、調査の手ほどきを受けたわけである。こうした具体的な仕事を通じての訓練というものは、どのような労働の世界にも共通のものであろう。こうして私は徐々に「調査屋」へと変貌していったのである。
委託調査は、確かに現場との接触を部分的には含んでいたし、社会的要請のそれなりの姿でもあったろう。しかしながら財政難が深刻化していくなかで、産業労働部門の委託調査は現場的な要素をそぎおとしたアンケート調査に絞り込まれていき、労働に直接関わりのない調査も多くなっていった。もちろん何もわれわれが好きこのんでそうした調査にしたわけではない。一件あたりの調査の受託金額が少額になればなるほど、調査から余分な要素をそぎ落とさなければならなくなるし、また逆に余計と思われるような調査を受託しなければならなくなる。
今から振り返ってみると、印象深い調査はやはり現場的な要素を多く含んだものばかりである。川崎の無宿労務者調査も、労働省のサービス産業調査も、電機労連の中高年者調査も、総合研究開発機構のライフサイクル調査やマイクロエレクトロニクス調査もすべてしかりである。異色なものとしては、鷲谷徹さんと一緒にあちこちかけずり回った神奈川の厚木基地周辺実態調査などもある。こうした調査の場合、その結果は委託先に提出する報告書としてまとめられただけではなく、その副産物として『労働科学』や『労働の科学』の論文として纏められたし、あるいはまた労研出版部から書籍として刊行された。
いつしか労研を遠く離れて
当時は若かったこともあって、他の出版社からの求めに応じてさまざまな原稿も可能な限り執筆した。それらはいずれも労研での調査なしには書けなかったものである。その頃横浜国大にいた下山さんは、日頃から「週刊誌の記事以上のものだと思ったら原稿にすべきだ」と言っていたが、彼の真意は、論じてばかりいても書かなければ、「社会的な発言」にはならないということだったのだろう。労研に在籍中の私は、こうした下山さんの主張を素直に実践していたような気がする。
その下山さんは、私のような年下の人間が書いたさえない原稿でも、いつも丁寧に読んでくれた。そして、論旨が一貫しない叙述や論拠が明らかでない主張をいつも鋭く指摘してくれた。論理や理論に弱い私の原稿が何とも歯がゆかったのかもしれない。だから彼に原稿を読んでもらう時は、鋭い指摘を予想していささか緊張もしたが、そうした緊張によって、一人前の研究者となることの厳しさを教えられたようにも思う。
このように下山さんは論理や理論の人であったが、当時茨城大学にいた近松さんは彼とはだいぶ違っていた。労研で顔を合わせる頻度は下山さんと比べると少なかったが、たまには彼の話を聞く機会もあった。近松さんはすぐに論理や理論で裁断せずに、ある素材を前後や左右そして斜めから眺め回し、その手触りのようなものを大事にしていた。いかにも職人的な仕事ぶりであった。労研の現実を見れば近松さんのようなやり方は通用しないとは思ったが、彼にはすぐに小器用にまとめようとする私の安直な姿勢を、どこかで見抜かれていたような気もしないではない。
下山さんや近松さんと比べると藤本さんとはだいぶ歳が離れていたので、私などは子供みたいなものだったろう。特に手取り足取り教えてもらったことはないが、側にいて研究者のあるべき姿をいつも見せてもらっていたように思う。研究に没頭する姿勢とそれを支える規則正しい日常、謙虚な立ち居振る舞い、自慢話や感情の高ぶりなどとはまったく無縁な静かな生活、さらに付け加えるならばおしゃれとユーモア感覚もそこにはあった。
私たちの研究室には、その頃亜細亜大学にいた野沢浩さんもよく顔を出していた。温厚な紳士という表現がぴったりの人であった。彼の翻訳の仕事を手伝って、下訳をしたことが最初の接点となった。誤訳も多かったはずの仕事に野沢さんは一言の愚痴も言わず、それどころか共訳者として名前さえ出してくれた。スタンリー・パーカーの『労働と余暇』(TBS出版会、1975年)である。今にして思えば、それは苦労した人のみが示すことのできた優しさだったのであろう。
その後藤本さんも野沢さんも、そしてまた下山さんも近松さんも労研を離れてしまい、産業労働部門は私と鷲谷さんで担わなければならなくなった。委託目標額を何とか達成しようと二人で悪戦苦闘もしたが、気心の知れた同僚だったから苦労のなかにも楽しさはあった。そんなさなかに、私は後を鷲谷さんに託して1985年3月に労研を退職し、近くにある専修大学に転職した。
辞めた理由はいろいろある。実態調査の経験を生かしてそれらを少しは「理論」的に整理してみたいといった願望を抱くようになったことが大きいのだが、それに加えて、コンピュータによってデータを処理して報告書を作成することに、ついていけなくなったり興味を失ったりしたこともある。さらには当時事務部門のOA化をめぐって所内の人間関係が「荒廃」し、その頃所長だった多田治さんが突然亡くなられたことも引き金となったような気がする。あまりにも苦労が多過ぎたのであろう。いずれにしても、大変な状況にあった労研から逃げ出すという「負い目」をはっきりと自覚しつつ退職した。
勤務先の専修大学は労研のすぐ側なので、別に地理的に遠く離れているわけではない。だから顔を出そうと思えば通りすがりにいつでも出すことはできたはずである。もちろん、求めに応じて『労働の科学』に原稿を書いたこともあるし、労研の組合に呼ばれて話をしに出かけて行ったこともある。しかし私にとって、労研はやはり仕事の上での青春時代を過ごした「ふるさと」であって、先のような思いで辞めたこともあって、もはや戻ることのできない場所となってしまった。犀星のように「遠きにありて思ふもの」であり「そして悲しく歌ふもの」となったのである。
昨年私は還暦を迎えさらに孫さえできて名実ともに高齢者となり、労研に在職した期間よりも教員生活の方がだいぶ長くなった。60歳を過ぎればもう何があってもおかしくはない。先日久しぶりに学生達とカラオケにでかけ岡林信康の「山谷ブルース」などを歌ったが、40年近く経ってもその歌詞は新鮮なままだった。「労働科学」が不要となるような世界とはほど遠い現実が、厳然としてある。労研で学んだことの一端を若者達に伝えるために、限られた時間のなかで何とかもう一働きすることが、ひそかに「ふるさと」を思う者の習いと言うべきなのだろう。(了)