処暑の岡山・倉敷紀行(四)-水島コンビナート瞥見-

 三日目は、今回の調査旅行のメインとなる水島地区の見学である。倉敷の美観地区から僅か20キロほどの距離であるが、両地区の様相は余りにも対照的である。この日はじつに盛りだくさんのスケジュールであった。出掛けた先を列挙してみると、次のようになる。午前中は倉敷市環境学習センター訪問から始まって、みずしま資料交流館(あさがおギャラリー)の見学とレクチャー、水島再生のシンボルとなった八間川(はちけんがわ)の視察、昼食を挟んで午後からは、JFEスチール(2003年に川崎製鉄と日本鋼管が統合して発足)西日本製鉄所の工場見学、水島港の港湾施設の視察、そして最後に鷲羽山スカイラインにある水島展望台から水島地区を一望しながらのレクチャーと続いた。

 こんなにも効率的にあちこちを廻ることが出来たのは、ひとえに「みずしま財団」の研修企画に参加させてもらうことができたからである。しかし、それにしてもである。残暑の厳しいこの時期に、高熱と蒸気にむせ返る製鉄所の圧延工程の見学とは、あまりにも生真面目である(笑)。見学通路から眺めた現場はなかなか迫力があり、真っ赤な鉄の塊であるスラブが、一気に薄く延ばされていく様は圧巻だったが、年寄りの私などはむせ返るような暑さに這々の体で見学を終えた。ではこうした真面目な研修を企画した「みずしま財団」とはどのような組織なのか。財団のホームページには次のようなことが記されていた。

      みずしま財団は、正式名称を公益財団法人水島地域環境再生財団といい、2000年3月に、水島地域の環境再生とまちづくりの拠点として設立されました。岡山県倉敷市の水島地域は、かつて、浅海漁業とイ草や蓮根などの生産で栄えた風光明媚な農漁村地帯でした。戦後、高度経済成長政策の下、岡山県の工業振興の要を担って新産業都市が整備されることになり、今や先端技術の粋を集約したわが国を代表するコンビナートを形成しています。「太陽と緑と空間の街づくり」のキャッチフレーズのもと、コンビナートは形成されていきましたが、こうした謳い文句とは裏腹に、夥しい公害問題を引き起こし、多くの人命や健康、豊かな自然環境や歴史・文化を損なう事態が進行しました。

 こうしたなか、コンビナート企業8社を被告に、公害病認定患者らは倉敷大気汚染公害裁判をおこない、13年の長きに わたる係争を経て、1996年12月に和解が成立。和解の中で「水島地域の生活環境の改善のために解決金が使われる」ことが両者の合意するところとなり、和解金の一部を基金に、みずしま財団が設立されました。子や孫によりよい生活環境を手渡したいとする公害患者らの願いに応えるために、また新しい環境文化を創生しまちの活性化に貢献するために、そして二度と公害をおこさないために、住民を主体に行政・企業など、水島地域の様々な関係者と専門家が協働する拠点としてみずしま財団は活動をおこなっています。

 上記のような経過を経て設立されたのが「みずしま財団」である。その研修企画に参加してあちこちを巡ってみると、これまで何も知らない人間ではあっても、いろいろと感じることがある。それだけ多様なアプローチが可能なエリアだからであろうか。財団が作成した『水島の公害と未来』(2022年)と題した立派なパンフレットを広げてみると、冒頭には「ようこそ水島へ」ということで、次のようなことが書かれていた。何とも興味深い一文である。

  空が広く、大きな川があり、遠くには瀬戸内海の島々がみえる水島地域。そこに、巨大な工場群として水島コンビナートがあります。水島は「日本近代が凝縮した街」 です。農業・漁業・工業の発展といった開発と公害や平和、 多文化共生といった現代的な課題が裏表になっている地域です。公害の経験をふまえて、 市民参加の街に変化すべく努力を重ねている実験的な場所でもあります。水島は懐かしく新しい、「温故知新」 の街です。水島からの問いかけに、 あなたも 応えてみませんか? 

 水島は「日本近代が凝縮した街」であり、「現代的な課題が裏表になっている地域」であり、「市民参加の街に変化すべく努力を重ねている実験的な場所」でもあるというのである。日本の近代化の過去と現在と未来が融合している場所だと言い換えてもいいのかもしれない。さらに次のページには、「水島は新しい街」と題して、水島臨海工業地帯(水島コンビナート)の歴史が以下のように紹介されていた。

 水島は、 戦争のために作られた新しい街です。 アジア・太平洋戦争の末期に、海軍の爆撃機・戦闘機を製造するため三菱重工業水島航空機製作所が作られたことで出現した街なのです。 空襲を受けて工場は破壊されましたが、 東高梁川の廃川地に作られた職員工員住宅は空襲を免れ、 戦後に空襲などで住宅を失った人や植民地などから引き揚げてきた人たちが集まってきました。岡山県は、 1953年度以降、水島港に大型船舶が入れるように海底を浚渫(しゅんせつ)し、 発生する浚渫土砂で海面を埋め立てて工業用地を造成しました。その工業用地に石油関連企業や発電所、製鉄所などが誘致されてコンビナートが建設されます。1964年には岡山県南地区は新産業都市に指定され、 水島は新産業都市の優等生と言われるほどに発展していきました。

 ここに登場する新産業都市とは、1962年に公布された「新産業都市建設促進法」(2001年に廃止)にもとづいて指定された、工業開発の地域拠点のことである。地域格差の是正と雇用の拡大を目的に構想され、高度経済成長下の地域開発のシンボルとして、64年から66年にかけて全国で15地区が指定を受けている。そのなかで岡山南地区が何故優等生とまで言われたのであろうか。その訳は、石油化学工業や重工業、電気・ガス産業、窯業、食品工業などの大企業が、続々と水島に進出し、日本屈指の重化学工業のコンビナートに急成長したからである。

 何故そこまでの成長が可能であったのか。その背景には一体何があったのか。そこが気になる。端的に言えば、岡山県と倉敷市の企業誘致に対するきわめて積極的な姿勢こそが、水島コンビナートを生み出したのである。柴田一・太田健一『岡山県の百年』(山川出版社、1986年)を広げると、その姿勢がどんなものであったのかがよく分かる。

 岡山県は1952(昭和27)年に企業誘致条例を、64年には工業振興条例を制定・施行して、工場誘致に関して全面的に協力している。奨励金の交付(3年間企業が納入した事業税を奨励金として交付する)、工場設備の便宜供与、不動産所得税や固定資産税の軽減措置などを図ったのである。また倉敷市も1957(昭和32)年に、工場設置条例を制定し、固定資産税を免 除するなどの優遇措置を取った。

 各企業との誘致協定を、三菱石油を例にとって具体的にみてみよう。県は工場敷地の造成工事をおこない、有償でこれを売り渡す(売渡し価格は1坪当り1,500円で、造成実費の18%にすぎなかった)、県と倉敷市は漁業権の調整をおこなう、県と市は工業用水・上水を確保する、県と市は電力・通信施設の斡旋をする、県は港の浚渫をおこなって三菱石油の使用する船舶の出入の便宜をはかる、 といった内容であった。その他の企業においても、県と市の提示する「スペシャル・サービス」(とくに安価な土地の入手)に魅力を感じて続々と進出を決定していったようだ。それにしても、「スペシャル・サービス」とは何とも言い得て妙である(笑)。

 いまここであらためてわが国の高度成長の背景に関してあれこれと述べるつもりはないが、1960年の「国民所得倍増計画」、62年の「全国総合開発計画」、「新産業都市建設促進法」と続く政策展開のもとで、日本も岡山県も倉敷市も、重化学工業化の道を驀進していくのである。当時の県知事三木行治(みき・ゆきはる)を先頭に成長神話に踊り、今から振り返ればもはや「興奮」状態だったのかもしれない。こうして大規模な地域開発が進められ、岡山は農業県から工業県へと「飛躍」していくのである。

 先にも触れたが、そこで掲げられたキャッチフレーズが「太陽と緑と空間の街づくり」だったというのが、何とも凄いの一言である。美辞麗句、羊頭狗肉、あるいはブラックジョークとでも言おうか。コンビナートという狭い地域に工場がひしめいたら、空と海と大地に何が起こるのかなど何一つ考えもせずに、開発が進められた証左である。北海道の開拓によってアイヌの人々の「静かな大地」(アイヌモシリ)が失われていったのと似たような構図なのではあるまいか。公害問題の歴史に一言も触れずして、鷲羽山の展望台から眺めたコンビナートの夜景の美しさを語ることなど、許されるはずもなかろう。

(追 記)

 先日、岡山市出身の元同僚の友人と食事をした。その際に、雑談の中でこの夏倉敷に調査で出掛けたことを口にしているうちに、当時工場誘致に狂奔した県知事三木行治の話となった。友人によれば、当時周りでは「神様、仏様、三木様」とまで言われていたということだった。コンビナートの直ぐ側にある福田公園には、彼の銅像が建っている。友人は、彼が岡山県を農業県から工業県に引き上げた功労者の如くに語っていたが、私は同意しなかった。公害に苦しめられた人々は、この銅像をどんな思いで眺めたのであろうか。