処暑の岡山・倉敷紀行(八)-大原孫三郎と労働科学研究所のことなど(下)-
大原孫三郎は三つの研究所の創設と維持に深く関わった。その研究所とは、大原農業研究所と大原社会問題研究所と労働科学研究所である。農業研究所は、大地主の息子である孫三郎が小作人の窮状を知ったことに端を発しており、大原社会問題研究所の場合は、当時の社会情勢と深く関わっていたようだ。注目すべきは米騒動の勃発である。1918年の7月に富山県の一漁村に端を発した米騒動は、またたくまに北陸諸県から全国に広がり、各地の米商人、高利貸、大地主、富豪は焼打ちにあい、政府は武装警官や軍隊を出動させてようやく暴動を鎮圧することができた。ここで米騒動についてこれ以上詳しく触れることは避けるが、根本には第一次世界大戦を通じて社会の諸矛盾が急激に拡大し、それが米価の暴騰をきっかけとして爆発したものだと言ってよかろう。それがわが国の支配層を震撼させたことは言うまでもない。
貧民救済や保育事業に私財を投じていたクリスチャンの孫三郎は、この米騒動に深く心を動かされたようである。彼はこの時すでに、社会の病弊たる貧民、孤児、売笑婦などを救済するだけでは不十分で、すすんでこれらの病弊を生みだす根源を探り、これを救治する方策を研究せねばならないとの認識に達していたようだ。米騒動の勃発は、そうした孫三郎の認識をさらに強めたことは想像に難くない。そして、その方策の研究のために構想されたのが、大原社会問題研究所だったのである。
しかしながら、孫三郎は社会問題研究所を設立するだけでは満足しなかった。城山の評伝にもとづいて話を進めてみよう。社会そのものを相手にするだけでなく、経営者としての彼は現実の労働環境も気がかりであったからである。従業員を人間として人格として遇するという以上、当然、日々働く環境を健康的なものにしなくてはならない。石井の孤児院でも衛生をやかましく言い、早くから診療所を設け、銭湯まで買い取ったが、企業であれば、さらにそれを上廻ることができるはずだと考えたようだ。
倉紡では、真夏の暑さが少しでも減るように、工場の煉瓦の壁に蔦を這わせることにしたり、井戸水を循環させる冷房装置をとり入れるなどしてきた。万寿(ます)工場の換気をよくするため、大きな換気塔も建てた。煙突ならぬ「塵突」と呼ばれたこの赤煉瓦づくりの塔は、遠くからもよく見え倉敷の名物にもなったのだという。ただ、孫三郎はそうした対症療法に満足せず、社会問題研究所の中に、疲労生理実験室を設けさせたが、その担当者として若い医学士暉峻義等(てるおかぎとう、1889~1966)に目をつけた。暉峻は寺の出だが、警視庁の嘱託として東京の貧民街で保健衛生の調査をやり、八王子の機械工場で女子労働の観察をしたこともあったからである。孫三郎は暉峻を呼んだ。
「とにかく現場を見てもらいたい」ということで、暉峻が倉敷の宿に入ったその夜、真冬二月の寒い中を、孫三郎は宿に出向いた。そして暉峻相手に、倉敷の歴史などあれこれ話し続けた。夜のふけるのも忘れてというより、夜ふけるのを待ってのことであった。深夜一時、孫三郎は立ち上がり、「さあ、工場へ行こう」自ら万寿工場の中を案内して廻り、綿ぼこりの舞う中、眼を赤くしながら働く女工たちの姿を見せた。並の経営者なら、いちばん隠しておきたい光景のはずであろうが…。
その上で孫三郎は暉峻に言ったという。「きみ、どうです。 この不健康な有様は。女の子がかわいそうです。 しかし、わし一人じゃ倉紡だけじゃ、どうにもできん。女工たちがもっと明るく強く、よく働き、幸せな生活ができるよう、工場へ来て研究してもらいたいんだが」。暉峻はこれに応じた上で、条件として、「この倉敷に、それも工場の中、あの綿ぼこりと騒音のすぐ横に、研究室を建てて下さい」と伝えたのである。孫三郎は快諾し、暉峻の希望通り、 万寿工場の敷地内の空地に、生理学や心理学の研究室、栄養研究室などからなる研究所をつくり、若手の研究員を揃え、「倉敷労働科学研究所」の名の下にまず工場疲労問題の調査研究に取り掛からせたのである。
孫三郎が暉峻に言った女工たちの「不健康な有様」とは、いったいどんなものだったのか。もっとリアルな姿を知りたくなる。そこで今度は、兼田の本から関連する箇所を拾ってみよう。彼女は、『労働科学の生い立ち』(労働科学研究所刊、1971年)に収録された桐原葆見(きりはらしげみ、1892~1968)の論考を取り上げているのだが、そこには次のような実態であったと描かれている。倉敷紡績にも、『女工哀史』の世界が広がっていたことがよく分かる。ここに登場する『労働科学の生い立ち』は定年前まで私の仕事部屋に置いてあり、桐原の論考も研究所に入所して間もなかった私も読んでいたはずなのだが、兼田の本を広げるまですっかり忘れていた。こんなことになるとは思いもしなかったので、既に本も処分してしまった。今となっては残念だと言うしかない。
暗い天井から無数のベルトが縦横にぶらさがって、その下で紡機がガラガラと大きな音をたててまわっている。近くで話している会話が聞きとれない。(中略)吸塵装置はまだどこにもなかったので、室内の湿度を保つために、頭上にとりつけられた鉄管から吹き出す蒸気と、「低混綿良製品」主義で、立ちのぼる安物の短繊維の原綿が、細い糸にひかれるにしたがって、この機械の回転とベルトの動きにあおられて、存分に立ちのぼるもうもうたる綿のかなたに、裸電球が黄いろくかすんでいる。その下で大ぜいの若い女子が、汗と膏(あぶら)にべっとりと綿ほこりのついた顔をぬぐいもあえず、忙しく立ちはたらいている。その中には12歳になったばかりのものから、15、6歳頃までの少女が大半をしめていた。
上記のような状況を改善すべく、若い研究員たちは深夜作業につき合い、ある期間、女工宿舎で寝泊りもしたらしい。城山は、栄養状態を手軽に改善するためにつくり出された「労研饅頭」(ろうけんまんとう)のことまで紹介している。 糖分を抑えた黒豆入りの蒸しパンで、栄養価は高く、手間が省けるし、番茶にも牛乳にも味噌汁にも合う。日保ちもよく、焼いて食べてもいいし、飽きが来ない…との自信作であった。名づけて「労研饅頭」。自信は報いられた。この饅頭は「ろうまん」の名で岡山の町でも売られ、四国の一部にもひろがり、いまも健康食品として残っている。私も、学会で松山に出掛けた折に、この労研饅頭を食べたことがある。何とも素朴な味わいだった。
私は1970年の秋に労働科学研究所に入所した。その源流は倉敷の労働科学研究所にある。最初の1年程は、祖師ヶ谷大蔵にあった古ぼけた研究所で仕事をしたが、その後しばらくして研究所は創立50年を機に川崎の菅生に移転した。新しくなった研究所の正面玄関前には、所長を長らく務めた暉峻義等の胸像があった。懐かしい思い出である。いずれにしても、孫三郎と暉峻の出会いによって労働科学研究所が設立されることになり、日本で初めて労働科学という学問が産声を上げたのである。先の暉峻義等、桐原葆見、それに石川知福(いしかわ・ともよし、1891~1950)らの研究所設立当初のメンバーは、ベルギーのイオティコの著作 “TheScience of Labour and Its Organization” から、倉敷労働科学研究所という名称を決定したのだという。
労働科学はScience of Labourの和訳である。暉峻などが執筆した『労働科学辞典』によると、労働科学とは、「労働する人間についての学問であり、労働する人間の肉体と精神とについて科学的諸原則に立って、経営と労働とをよくする方法を発見する科学」と位置付けられている。また、「労働の機械化によって新たに起こってくる、機械的労働の人間生活や労働力に及ぼす影響を研究し、機械の重圧から人間を解放する科学的手段を発見する」ことが労働科学の任務であるとも述べている。その意味では、労働者を機械視し能率を重視したテーラーの「科学的管理法」(Scientific Management)とは違っていた。
桐原も、「労働科学は人間の労働を研究する実践科学である。(中略)労働科学は働く人間のために真実に合理的な労働と生活の条件を求めてやまない社会生物科学である。そこには感傷ではない、合理的ヒューマニズムがなくてはならない」と語り、「どんな体制の下でも労働者大衆のためのもの(labour oriented)」 でなくてはならないという労働科学への思いも強調していた。倉敷に誕生した労働科学研究所とそこでの労働科学は、たんに効率の向上を目的とした学問ではなく、人間尊重の視点を重視した実践的学問であったということであろう。それこそが、孫三郎の願っていたものに他ならない。
labour orientedとは昔懐かしい言葉である。しばらく前に、私は労働科学研究所時代を振り返って以下のような文章を書いた。「私にとって新鮮だったのは、そうした(労働科学の)規定に導かれて、現場との接触が労科科学にとり不可欠であること、研究者は社会的要請に敏感であるべきことが強調されていたことであり、更に、こうした研究者のありようを支えるものが科学的ヒューマニズムの「精神」 であり、labour oriented な研究 「姿勢」であると述べられていたことであった。こうした 「精神」 や 「姿勢」こそが私が労研で学んだ最大のものではなかったかと思う」。倉敷川沿いの郷愁を誘う景観を眺めながら、若かりし頃の労働科学研究所時代を一人静かに懐かしんだ。