処暑の岡山・倉敷紀行(五)-水島の公害に挑んで(上)-
水島にコンビナートができあがったことによって、地域社会には大きな変化が現れた。先に紹介した「みずしま財団」の『水島の公害と未来』によれば、魚が湧いて出てくるとまで言われた海が汚染され、1961年ごろから水島沖でとれる魚が石油を含んだ工場排水の影響で臭くなり、食べられなくなった。さらに、大規模な埋め立てにより、餌場や産卵場となっていたアマモ場(海藻の一種であるアマモが群生している場所)がなくなり、豊かな漁場は失われていったのである。
農業振興のために干拓されたはずのところが、64年頃には大気汚染によって梅やスイカ、 ごま、いちじく、ぶどう、みかん、柿の実が実らなくなり、稲の裏作で耕作されていたイ草が先枯れしてしまい、商品として流通しなくなっていく。生業である漁業や農業に、まず最初に影響が出てきたのである。
続いて大きな問題となったのは、水島コンビナートの製鉄所や石油精製・石油化学の工場や発電所から排出された、硫黄酸化物などによる大気汚染である。1972年から 73年にかけて水島地区の二酸化硫黄の濃度がピークとなり、大気汚染物質は農作物に被害を与えただけではなく、人間の呼吸器を損傷させて気管支ぜんそくや慢性気管支炎などの病気を引き起こしていくのである。 倉敷市における公害健康被害補償法による認定者(いわゆる公害患者)は総数で3,888名にも上ったという。
概略は上記のようなことになるのだが、これだけでは公害発生の深刻な状況が浮かび上がってはこない。当時の状況をもう少し詳しく知りたくなる。「水島コンビナートとある医師のたたかい」をサブタイトルにした丸屋博の『公害にいどむ』(新日本新書、1970年)には、次のような記述がある。改めて詳しく見てみよう。この丸屋は、当時水島生活協同組合・協同病院診療部長であった。
その彼によれば、すでに1960年~61年頃から、日本ガス化学、三菱石油、日本鉱業、中国電力等が操業を始めており、63年に岡山市で開催された第5回社会医学研究会では、水島重工業地帯についての報告があり、政府の指向している地域開発のための新産業都市計画が、住民不在のものであり、水島もまた巨大な公害発生地域になるであろうことへの警告がなされたのだという。しかしながら、岡山県はこうした警告にはまったく耳を貸すことなく、バラ色の幻影で覆われた工業化の利益を、住民に大々的に宣伝し続けたのである。住民もまた、この時点では公害がどのように生活環境を破壊していくのか、考えてもみなかったようだ。
公害は1959年に工場用地の造成がはじまると同時に発生し始め、まず水質汚染問題として、浅海漁業(ノリ、アサリ、モ貝)に被害が出た。続いて工場が操業を開始した翌々年の61年に、魚が油くさくて市場価値が低落するなどの被害が各地に散発した。また1963年頃から、水島市街地がしばしば異常な臭気におおわれたこともあって、大気汚染への恐れがようやく市民のあいだに広がり始めた。
64年にはイ草先枯れ事件が報告され、これが大気汚染によるものではないかと考えられていたとき、呼松(よびまつ、水島にある地区の名前)に深刻な被害が発生するのである。64年に石油コンビナートの心臓部といわれる化成水島が操業を開始するや、猛烈な悪臭と騒音、光害などが、残酷なほどむきだしのかたちで住民に襲いかかった。たまりかねた呼松の町民700名が化成水島、岡山県庁、倉敷市役所へ、ムシロ旗をたてて押しかけた。この”呼松エピソード” とよばれる事件が、水島における公害反対のための住民運動の始まりであったとのことである。これらの住民の声におされて岡山県当局は、翌65年にそれまでまったく計上していなかった公害対策費を計上することとなった。
65年には、呼松港で数万尾の魚が斃死するという大量死魚事件もおこり、呼松港の海水中からシアンイオンが検出されたことが明らかにされた。また、同年には2年前からしばしば指摘されていたイ草の先枯れがふたたび報道され、市長も亜硫酸ガスによる被害であると考えられるとの談話を発表せざるをえなくなった。さらに、この年には化成水島でバルブが破損し、アクリロニトリルが流出したため、地域住民に対して夜中に緊急避難命令がだされるという事件もおこった。こうして水島地区の住民は、誘致工場によって引き起こされる災害を危機感をもって受け止めるようになっていくのである。
被害を被った水島灘の漁民の生の声を聞いてみよう。この哀しみに溢れた呻き声は、日本科学者会議瀬戸内委員会が編集した『公害にいどむ瀬戸内住民』(1972年)に収録されている。私はたまたまこの本を手にすることができたが、今となっては50年以上も前のこうしたものを読む人などもう誰もいないだろう。日本の近代化というものが、その裏面において生業を壊し、人間を壊し、地域を壊していったことがよくわかる貴重な時代の証言である。「水島の海は死んでしもうた」と題したこの慟哭の文章を是非とも多くの人に読んでもらいたいと思い、今回あえて全文をブログに載せることにした。だいぶ長くなるが、お目通し願いたい。
うちのおとうちゃんは、いま沖へいっとります。もうあすの朝までは帰ってきません。この頃は、昔とちごうて漁に出る人もあんまりおられませんし、お父ちゃんも、一人で沖へ出るのは大儀なようです。昔は、村ぢゅうそろうて、それゃあ船が出るときにはにぎやかなもんでした。隣りの”しげさん”も”よしさん”もみんなが競り合って船を出しますけえ、村もにぎわいますし浜もにぎわいます。自分だけ遅れてはいけん、ちゅうて、みんな少々のことは競り合うて出ていったもんでした。それがいまはもう10人もおりますまい。ぽつり、ぽつりと抜けなさるんです。お父ちゃんは「俺れゃあ生れついて漁師じゃった。漁以外したことがないんじゃから、今更、陸へあがっても何もできれゃあせん。どんな魚でもええ、魚がとれるまで漁をするんよ」といいなさって漁に行っとられます。
わたしらの村は、ごらんのように昔は水島灘のはるか沖の島(高島)でしたから、最初水島の方で埋立てがされるちうときも、えろう関係はなかったんです。島と塩生の村とが埋立てで地つづきになるときも、便利がようなってええ具合じゃ、というぐらいのもんでした。工場がやってきて、「水島の方じゃあ油臭い魚がとれるそうな」ちゅうような話をきいたときも、わたしらあ関係ないことじゃと思うとりました。そうです、もう7、8年も前の話です。それから3年ぐらいたったでしょうか。うちのお父ちゃんのとって来たチヌが臭かったんです。こっちも臭い魚がおるぞ、という話しがちらほらきかれるころでした。祭りの膳に出したチヌが1匹だけ、油のベトッとした臭いがして、口へ入れたとたんに思わず吐き出したんです。たまげました。工場が来はじめて、6、7年にもなっとったでしょうか。その頃から臭い魚がどんくあがるようでした。
ある日県から、お役人さんが来られて漁を止めえ、ゆうて話しておられました。いま止めたら、なんぼうたら大金が出るゆうておられましたが、うちのお父さんは少々へんこつ者なんでしょうか、さっきも話をしたような調子で、「わしゃあ魚がとれるまでは漁をするんじゃ」ゆうて頑固に言いはられたようでした。その時、村の半分ぐらいの人が漁を止められたでしょうか。ごらんのように小さな島の村です。畠も少ししかありません。 猫の額のようなところです。それでも豆をうえたり、野菜をつくったり、また背戸の山にはミカンの木もあって、魚はうまし、でわたしらにとっては言うことのない あんき(気楽でのんびりしていること)な村でした。
今年も、とうとうサワラは1こもとれませなんだ。去年もほんに2本か3本のことでした。昔、サワラの時期なんぞは、それゃあ浜は大変なものでした。子供も大人も船の帰るときは、ワイワイと浜に集りまして、3尺も4尺もあるようなサワラを何十本と揚げる手伝をしたもんです。それがもう居らんようになったんでしょう、とうとう1こもあがらんのです。ここからは見えませんが、裏山の北から下ってもう南の方まで、川鉄の埋立てが来よります。もう海上、二里も三里も、沖へ埋立てて来たちゅうわけです。ぐるり見わたして、どこもみんな海じゃった島でしたが、いまはもう目の前に海はのうなった、いうてええでしょう。
お父さんは近頃、「もう今日は大儀な、休もう」いうて漁を休まれる日がようあります。あれからもう何度も県の人が、「みんなが一こに漁を止め んか。そんなら補償もそれだけよけえ出せるんじゃが……」いうて来られました。そのたびに、二人、三人と漁を止められて、とうとう指を折って数えるほどしかいまは残っとられんです。ぽつりぽつりと船が出るわけですから、昔のように競り合うてするわけでなし、仕事に行くにも張り合いがないんでしょう。ちっとからだがくたびれたら「もう今日は休め」と自分で思うのも無理はなかろう、と思います。同じように沖へ出るのも、近頃はもうづっと遠くへ 漁に行かんといけんようです。昔のようにすぐ見えるところにあったええ漁場は、いまはぜんぜんおえません(だめです)。魚がおらんわけじゃあありませんが、獲った魚が油くそうて食えもどうもしたもんじゃあありません。
お父ちゃんも以前、臭い魚をとりに行きよったことがあります。 異臭魚いうて相場よりなんぼうか安うして市が買いあげるんです。買い上げた臭い魚をどうするんかわたしゃあしりませんが、何せすぐ近くでの漁ですから、からだは楽なんでしょう。しばらく臭い魚をとっとりましたが、「なんぼうにも情のうていやじゃ」いうて、あれから臭い魚はやめたようです。自分がとって来た魚が、最初から人さまの口に入らん、肥料になるかなんか知りませんが、とにかく魚として通用せん、公害対策のつもりか何かの買上げちゅうのは、永い間漁師をして来たお父ちゃんには、情のうて、つらいんでしょう。それからえろう遠くへ行っとるようで、くたびれることもくたびれるんでしょう。
漁を止められた人ですか。工場へ行っとられる人もあるし、家でぶらぶらしとられる人もあります。工場へ行くゆうても、下請けさんで、いろんな仕 事をしとられるようです。去年あたりは不景気とかで、大分仕事を休んで居られたようでした。仕事があると口がかかって仕事に行く、ゆうことでしょう。今まで船の舵をとって網を引きよった手で、今度はガスの配管をしたり土木工事をしたりのようですが、くわしいことは話されません。それに漁をつづけとる人、下請けに行く人、それもすぐ隣りの公害の工場に行く人、いろいろですが、何とのう話しにくいようです。昔のように腹を出して話し合うことがのうなったように思います。
公害もあります。まわりの海を埋立てて、ぐるりと工場がきとるんですから、それゃあもう臭いこともありますし、ゴミの降ってくることもあります。黒い塵と白い塵とが交互に降って来ます。白い塵はぼっこ(大へん)悪いようで、こないだも夜降った白い塵が、池のコイをみな殺しました。よその家でも、死んだゆうとられましたから、随分死んだんだと思います。黒い塵は、背戸の山をこえて川鉄からマンガンちゅう粉が飛んでくるんぢゃそうです。3年ぐらい前から、健さんとこは自分も奥さんも、手がしびれて来て、痛うなって、それがだんだん肩の方へあがって、頭までヌケヌケする(痛が抜けるように走る)ゆうとられました。
そんな人が何人か居られまして、丁度、そのマンガンが降って来はじめた翌年からぐらいでして、マンガン中毒じゃあないか、と大分さわがれましたが、いまは新聞も何もいわんようです。健さんは、手が痛い痛い、いいながら漁に出ておられるようですし、奥さんはいま四国の方の病院へ入院しておられるようです。公害いうもんじゃと私も思います。私もこの2、3年、のどがえろうて、しょっ中咳が出て困っとります。油の話をしても、陸の話をしても、ぐちばっかりになりますが、ほんとうに海はもう死んでしもうたのかも知れません。お父ちゃんは、その水島の海と、最後まで心中するつもりなんでしょう。お父ちゃんがその覚悟なら、それでええと私も思うとるんです。