処暑の岡山・倉敷紀行(二)-繊維の「産地」児島地区へ-
翌日二日目は、朝早くホテルを発って瀬戸内市にある備前長船(おさふね)刀剣博物館に向かった。素人の私には何処に刀剣の需要があるのか分からなかったが、同行のメンバーによれば、どうもあるところにはあるらしい。刀剣にはその精巧な作りや刃文から醸し出される魅力とか魔力とかがあり、どうもそうしたものが通の人々を惹きつけているようなのである。「武士の魂」なるものに胡散臭さを感じている私のような人間には、もともと理解できるはずもなかったのだが…。その制作過程はまさに職人芸の世界であり、たっぷりと年季の入った職人がこれまたたっぷりと時間を掛けて作っているようだった。ここを見学した後倉敷の児島地区に戻り、海沿いに建てられたホテルで昼食を摂った。
食後に海岸に出てみたが、目の前に広がっていたのは瀬戸内の実に見事な眺望である。あまりの素晴らしさにしばし暑さを忘れた。8月であれば海水浴客で賑わったのであろうが、今はもう誰もいない。広がった砂浜、ゆったりと波が漂っている海、その先には多くの島々が遠望された。近い島は濃く遠い島は薄く霞んでいる。見上げれば、夏の名残をたっぷりと残した紺碧の青空が広がっていた。松林、砂浜、海、島影、そして青い空。白砂青松(はくさせいしょう)とはこのことか。砂浜には置き去りにされたかのようなボートが数隻。私は飽きもせずにたくさんの写真を撮った。こんなにも美しい晩夏の海であれば、誰が撮ってもいい写真になるに違いなかろう。
午後からは、児島地区で繊維産業の現状を視察することになっていた。この地区における繊維産業はどのような歴史を辿ってきたのか。岡山県の南部一帯は、先にも触れたようにかつては 大小の島々が点在する一面の海であったという。 その広大な浅海は、 高梁川によって運ばれた土砂によって徐々に浅くなり、 近世以降の干拓によって陸地に姿を変えていく。 しかしながら、干拓されたばかりの土地は塩分が多いので 米作りには向かない。 そこで塩分に強い綿やイ草が換金作物として盛んに栽培されるようになり、それが現在につながる繊維産業の礎となっていくのである。
倉敷は1642(寛永19)年 に幕府の直轄地いわゆる「天領」となり、 政治の中心地であると同時に 備中南部における物資の集散の中継地として発展した。 運河として利用された倉敷川の周辺は、 綿などを扱う問屋や仲買人で賑わったという。 現在も、倉敷川沿いには、 川港(かわみなと)の繁栄を物語る当時の荷揚げ場や路地の石畳、常夜灯などが残り、 綿花産業の富を象徴するかのような白壁の商家の建物も軒を連ねている(倉敷の名は蔵屋敷に由来している)。美観地区を散策した折に、私もそうした歴史的な史跡を眺めてきた。
北前船の寄港地であった玉島や下津井の港町では、北前船で運ばれてきた 綿作の肥料が買われ、繰綿(くりわた)などの綿製品が出荷された。繰綿とは実綿(みわた)から種子を除いたもののことであり、いわゆる綿花のことである。児島地域では、真田紐(さなだひも、平で幅の狭い紐のこと)や小倉織(こくらおり、縦糸の密度が高く丈夫な布のこと)などの繊維製品が生産され、 由加山(ゆがさん)にある門前町では土産物としてもてはやされるなど、 繊維産業は地域発展の基盤となったようだ。
備中綿の集荷の中心として栄えた玉島地域では、最盛期には40軒を超える問屋があり、 200棟を超える土蔵群が軒を連ねていたのだという。「備中三白(綿、塩、米)」という言葉にも、当時の名残が刻まれている。売り買いされる商品の8割が綿に関係したもので占められ、「西の浪速 (なにわ)」 とまで呼ばれた玉島の繁栄は、現在も残る古い町並みや住宅などに見ることができるとのこと。今回は、残念ながら時間の関係で玉島まで足を延ばすことは出来なかったが、いずれにせよ、綿こそが児島や玉島に富をもたらした源だったのである。
明治に入ると、 政府によって民間紡績業の育成が奨励されたこともあって、 国内最初の民間紡績所となった下村紡績(児島)と 玉島紡績 (玉島) が1881(明治14)年に操業を開始する。さらに1889(明治22)年には、英国式の最新の機械と工場施設を備えた倉敷紡績所(現在のクラボウ) が倉敷代官所跡に創設されるなどして、 繊維産業の隆盛によりこの地域が大きく発展した。このようにして、倉敷は紡績業のまちへと変貌していくのである。ここでとりわけ注目されるのは、倉敷紡績所を国内有数の紡績企業へと成長させた大原孫三郎の存在である。彼については次回以降に詳しく触れたい。
伝統産業として育まれた紡績、撚糸 (ねんし)、 織り、染色、 縫製などの技術によってもたらされた製品は、当初の門前町での土産物から足袋(たび)へと移っていく。しかしながら、服装の洋風化もあって足袋の需要が低迷したために、その後学生服や作業着などの多彩な衣料品の生産へと展開していくことになる。大正時代に入ってからは、学生服の需要が急速に伸び、1955(昭和30)年には児島産の学生服が全国の学生服の7割を占めるまでになったのだという。この辺りが学生服の生産のピークだったのであろう。岡山文庫に収録されている猪木正実『繊維王国おかやま今昔』(2013年)には、集団就職で児島にやってきた中卒の若者たちの写真があった。最盛期には年に1,000名を超えるほどの人数に上ったのだという。その後彼ら、彼女らはどうしたのであろうか、ふとそんなことを思った。
学生服の生産が少子化や海外生産の広がりによって伸び悩むなか、あらたに登場したのがジーンズの生産であった。学生服で培われた縫製技術を生かして、1965( 昭和40)年には国内初のジーンズが誕生する。「ビッグジョン」である。先の猪木の本にはビッグジョンのブランド名の由来が記されていた。それによれば、創業者である尾崎小太郎の名前から、小さな「太郎」(アメリカで言うところのジョン)では弱々しいので、夢をもって「大きな(ビッグ)ジョン」にしたのだという。何だか少し笑えた。
ジーンズ産業が児島地区の活性化に果たした役割は大きかったようだ。ジーンズは、ジェノバの船乗りたちがはいていたズボンに由来するようで、酷使に耐えて丈夫なので各地に広がっていったが、それにしても、ジーンズがここまでポピュラーになるとは。今では若者だけではなく中高年者も普段着ではいている。こうして児島は 「国産ジーンズ発祥の地」といわれるようになり、今や加工も含めたその生産技術は世界のジーンズ産業にも大きな影響を与えているのだという。先日気分転換に江ノ島まで出掛けてきたが、そこの通りにも岡山産のジーンズだけを扱っている店があった。
ここまで、児島の繊維産業の略史のようなことを紹介してきたわけだが、ここが「産地」となったのは繊維産業に特有の理由があったからである。そのことにも触れておきたい。倉敷市を対象にして『サステイナブルな地域と経済の構想』(御茶の水書房、2016年)を論じた著作がある。法政大学大原社会問題研究所/相田利雄編の著作であるが、ここに登場する大原社会問題研究所も大原孫三郎と深い関係がある。そのことについても次回以降に触れたい。この著作において、高橋啓は繊維産業の特徴を概略次のように紹介している。
繊維産業は3種の多様性を有しているという。まずあげられるのは製品の多様性である。衣服をはじめ タオルのような生活用品、シーツや布団のような寝装品、カーテンや絨毯のような住宅用衣料品など、幅広い分野の多種多様な製品を扱っている。 次は素材の多様性である。天然繊維、再生繊維、半合成繊維、合成繊維などの多種多様な素材が、製品に要求される性質や機能、特性に応じて使い分けられている。そして最後が企業の多様性である。繊維製品の生産、流通、販売には、多様な企業が分業体制で参画している。繊維原料から糸を作り、布を織り、染色し、裁断し、縫製を経て最終製品となり、さらに消費者の手元に届けられるまで、それぞれの工程毎に異なる企業が分担しているのである。そしてまた、これらの分業体制のオルガナイザーの役割を果たす企業も活動している。
上記のような繊維産業における分業体制を川の流れに例えるならば、繊維の原料をもとに糸を生産・加工する「川上部門」、その糸を織ったり染めたり して織物を生産・加工する「川中部門」、そして織物などを最終製品へと生産・加工する「川下部門」ということになる。川上部門は、合繊メーカーや紡績会社などの比較的規模の大きな企業が担当してきた。川上部門に比べて相対的に設備負担の少ない川中部門や川下部門は、中小・零細企業によって担わ れている。そして、これら川中部門や 川下部門の中小・零細企業が、工程別ないし製品別に協力して生産を行っているために、一定の地域内に企業が集中的に立地する「産地」が形成されるのだという。
児島地区が繊維産業の産地となったのは、上記のような背景があったからである。私たちはこの日繊維の産地である児島地区を巡った。順番に記せば、児島学生服資料館を眺めた後、学生服のメーカーである日本被服の工場を見学し、児島ジーンズストリートを散策した。日本被服で工場内の工程を詳しく説明してくれた方が、資料館での案内役も買って出てくれた。学生服関連の旧い資料を収集するに当たっては、いろいろと苦労もあったらしい。その苦労話に、学生服への愛着が感じられた。
戦前の学生服の名称が興味深い。「大楠公」(楠木正成)、「東郷」(東郷平八郎)、「乃木」(乃木希典)、「三笠」(軍艦三笠)、「菅公」(菅原道真)、「忠臣」などの商標が飾られていた。学生服の源流が軍服にあったことを窺わせるような名称である。セーラー服なども同じであろう。学生服の生産の先覚者は、児島織物を起こした家守善平(やもり・ぜんぺい)だとのことだが、児島織物もそこの学生服で一世を風靡した「大楠公」も今はもうないとのこと。
学生服を見ているうちに、昔の頃が何とも懐かしく思い出された。柄にもなく、郷愁に溢れた何とも甘酸っぱい気分に陥ってしまったのである(笑)。そんな気分のまま、その後直ぐ近くにあるジーンズストリートを歩いた。ジーンズなるものを一度もはいたことのなかった人間が、こんなところにいるのが不思議な気がしたのだが…。残暑の厳しい夏の午後に、特段の用事もないのに通りを歩く人など、我々を除けば誰もいない。見学と散策に疲れて、お茶でも飲んで一休みしたくなった。たまたまKさんと顔を合わせたので、近くの喫茶店に入った。ジーンズストリートにある喫茶店だからなのか、店の雰囲気も、流れている音楽も、店の女性も何だかオシャレだった。夏の午後二人でしばし雑談を交わした。