処暑の岡山・倉敷紀行(三)-旧野崎邸と下津井を訪ねて-

 年が改まって、今日は2025年の元旦である。このところ好天が続いていることもあって、今朝も雲一つない冬晴れである。何とも清々しい。この年齢まで生きてくると、新年を迎えたからと言って何か気持ちが改まるようなこともない。いつものことだが、今年こそは心穏やかに日々の暮らしを紡いでいきたいと心密かに願うばかりである。普通が一番なので、幻想も抱かず幻滅もせずに生きていくつもりである。そんなわけで、正月早々からのんびりとブログに向かうことにした。30日には『正体』を見に映画館に出掛け、大晦日は家人と家で『砂の器』を見た。元日からは『ゴッドファーザー』三部作を三日日がかりで見るつもりである。雑煮を食べながらの映画三昧の年の暮れと年明けである。

 前回のブログでは、繊維の産地として発展してきた児島地区のことを纏めて書いてみたが、じつはその前後にあれこれ見て廻ったのであり、ジーンズストリートを散策する前には旧野崎邸を見学し、散策の後には下津井地区を探訪した。前者は塩田王としてその名を知られた野崎武左衛門の旧居であり、後者は北前船の寄港地として知られた港町である。今両者とも既に知っているかのように書き始めたわけだが、訪ねるまではその名前さえ知らなかった。世間知らずの私なので、知らなくてもなんの不思議もないのではあるが…。先ずは、ジーンズストリートの外れにあった旧野崎邸の方から触れてみる。

 入口で受け取ったパンフレットには、その沿革が次のように記されていた。野崎家は製塩業と新田開発で財を成した野崎武左衛門(のざき・ぶざえもん)がその気宇に合わせて天保から嘉永年間に次々に築いていった民家である。敷地面積は約3,000坪、建物延床面積は約1,000坪の屋敷である。長屋門を入ると、濃い緑を背景とした本瓦葺の 主屋群が軒を連ねて美しく、これに並んで威風堂々と軒を連ねる土蔵群がある。中門を入ると表書院の前庭となるが、庭園は枯山水で、児島の豊富な石材を生かして石組に幽玄の風情を表現している。庭には各種の常緑樹が林立し、茶室を結ぶ露地の傍には三尊石や陰陽石が点在し、設立者の美意識が遺憾なく発揮されている。

 総じて、建物と庭園がこれほど創建のままに保存されているところは稀であり、山陽道の代表的な民家と言える。1977(昭和52)年には岡山県の指定史跡となり、1995(平成7)年には博物館に登録され、2006(平成18)年には国の重要文化財(建造物)に指定されている。2011(平成23)年に岡山県の博物館として初の公益財団法人に認定されている。

 上記のような紹介からも分かるように、野崎邸は文字通りの大邸宅、大豪邸であり、とてもたんなる民家などとは思われない。大庭園であり立派な博物館である。余りに広すぎるので、ここに人間が暮らしていたとはなかなか想像しにくいほどの広さである。広すぎてかえって住みにくかろうなどと勝手に想像した(笑)。それよりも、これほどの大邸宅を建てるだけの富はいったいどこからもたらされたのだろうか。私としては、そうした下世話な話の方に興味が湧く。前回「備中三白」という言葉を紹介したが、児島には「児島三白」という言葉がある。この 三白とは、イカナゴ、綿、そして塩の白である。大邸宅の主であった野崎武左衛門は、この塩つまり塩業で財をなしたのである。児島駅前には、その名も武左衛門通りと名付けられた通りがあるとのこと。それだけ名の知られたの豪商だったのであろう。旧野崎邸の入口で、たまたま猪木正実『野崎邸と野崎武左衛門』(岡山文庫、2014年)を見つけたので、購入しておいた。この本を参考にしながら、児島における製塩業の歴史を振り返ってみる。

 塩の生産の歴史は古く、昔は海藻を採ってきて乾燥させ、それに繰り返し海水をかけて、濃厚な塩水をつくり、その塩水を土器に入れて煮詰めて塩を作ったのだという。それが、8世紀あたりになると、塩を濃縮する方法が海藻から塩浜へ、土器から釜へと移行する。 海辺の海面から少し高いところに塩浜つまり塩田を造り、砂に海水をまいて塩を付着させ、その砂を集めて海水をかけながら濃いかん水を作り、それを釜で焼いて塩を作るようになったのである。揚浜式塩田というもので、気候の良い瀬戸内海地方では古来から広く行われていたようだ。なかでも児島は製塩地として知られ、児島の塩生(しおなす)などは、まさにその名の通りの揚浜式の塩田地帯だった。降雨量が少ないという好条件もあって、児島地方は日本有数の塩の産地になっていくのである。

 このような歴史を背景に、17~18世紀あたりになってくると、児島一帯の沿岸部では潮の大きな干満差を利用して海水を自動的に塩浜へと導いて製塩する、小規模な入浜式の塩田の開発も始まっていく。その後瀬戸内地方では、後に「十州塩」(瀬戸内沿岸の10カ国で生産されていた塩の総称)と呼ばれるような産地が各地に育っていくことになる。しかしながら、塩田自体は武左衛門時代に見られる新浜とは比べものにならないほど小規模なもので、農業の片手間で行われる副業的経営(いわゆる百姓浜)だったとみられる。

 大規模な入浜式の新塩田の築造が始まるのは、武左衛門が登場してからである。武左衛門の野崎浜の築造は、1829(文政12)年 の味野村沖から始まり、赤崎村沖へと続いて計約48ヘクタールに及んだ。この規模は、児島地区の他のすべての塩田の広さを上回るものであったという。武左衛門はさらに児島半島の各地にも新浜の築造を計画し、最終的に彼が開発した塩田は約161ヘクタールに及ぶことになる。その始まりが野崎浜なのである。

 これらの新浜開発に刺激され、児島地区では周辺に新浜の築造が相次いだ。新規の築造に乗り出したのは、機(はた)業で儲けた資本家と富農層だったという。こうして、製塩地児島の原型がほぼできあがるのである。こうした新浜築造ラッシュには、もう一つの背景がある。財政危機にあえぐ岡山藩の支援である。武左衛門らの新浜築造を促進するために、税に関して優遇策を取ったのである。税収の増加を図るには、新田開発や新浜築造が手っとり早かったのであろう。武左衛門らも藩の威光を活用したようだ。

 事業に関しては優れた才覚を発揮した武左衛門だったが、家庭的には恵まれない人物だった。彼は、1809(文化6)年、20歳でいとこの美須と結婚する。 そして28歳の時に待望の長男菊蔵を授かった。しかしながら喜びは長続きせず、菊蔵は夭折。翌年、後を追うように苦労を共にしてきた妻の美須が病死している。最大の悲劇は、自らの後を託した長男常太郎の病死だろう。享年35歳だった。家督を相続させてから約8年、武左衛門は隠居して風雅の道を歩んでいた時である。彼は、66歳にして再び家督を相続せざるを得ぬ羽目に陥った。武左衛門が隠居した年には、常太郎を産んだ後妻の町も旅立っている。町は三男一女をもうけたが、残ったのは常太郎一人だけだった。そしてその常太郎も亡くなった。武左衛門の死後に残されたのは、幼い孫二人だけだったという。

 家族を亡くした思いを、いろいろなところで吐露しているとのことだが、その肝心な話は、先の本にはまったく紹介されていない。地元の偉人を描いた本は、どうしても表ばかりを追いがちである。この私はそこをこそ読んでみたかったので、何とも残念であった。あの広大な屋敷で、武左衛門は何を思いながら晩年を過ごしたのであろうか。彼は茶道を始め和歌や書画にも造詣が深く、多趣味な人であったようだが、もしかしたら、それは寂しさを紛らすためのものでもあったのかもしれない。

 続いて、この日の最後に訪れた下津井について触れてみたい。下津井は、瀬戸大橋の本州側の起点となるところにある。昔から海運や軍事の要衝であり、江戸時代には、北前船が瀬戸内海の狭い海峡を通過するために、潮待ち、風待ちをした寄港地として、あるいはまた児島と四国を結ぶ南北航路の要として知られる。船頭や水主(かこ)は、この下津井の町で次の航海に出るために休息を取り、再び瀬戸の海原に出航していったのである。海沿いには、北の鰊粕(にしんかす)と塩を売買をする廻船問屋が軒を連ねていたというし、また金比羅山や由加山詣での人々の宿泊地でもあったことから、宿や料亭もたくさんあったらしい。勿論遊郭もあった。

 下津井では、備前の産品の一大集散地として米・大豆・干鰯(ほしか)など様々な商品が扱われ、19世紀になると北海道から肥料となる鰊粕などを積んだ北前船が出入りするようになる。 菜種や綿に加え児島の塩が北前船の帰り荷として喜ばれたことから最盛期には50~60隻の北前船が来港し、港は沸き立つほどの賑わいだったという。しかしながら、そうした繁栄が続いたのは明治の初期までである。その後は静かな漁港へと姿を変えていく。北前船の寄港地として賑わったところは、その多くが似たような状況になったようだ。

 下津井には江戸から明治にかけての古い町並みが至る所に残っているので、岡山県の町並み保存地区として指定されている。私もそうだったが、初めてこの町を歩いた人はどこか懐かしい時代にタイムスリップした気分になるに違いない。少し裏寂れた街並みが、ノスタルジックな雰囲気を醸し出していたからである。この下津井で約150年前から唄い継がれてきたのが、「下津井節(しもついぶし)」であり、ここには往時の繁栄振りが窺われる。北前船の航路で船頭は各地で覚えた歌を唄い、寄港地となった土地では、聞き覚えた人々が独自のアレンジを施しながら唄っていくうち、土地に定着していくのだという。下津井節はそのひとつである。歌詞を紹介してみる。

  下津井港はヨ 這入りよて 出よてヨ まともまきよて まぎりよてヨ
     トコハイ トノエ ナノエ ソレソレ
   下津井港にヨ 錨を入れりゃヨ 街の行燈の灯が招くヨ
     トコハイ トノエ ナノエ ソレソレ
   追いて吹こうとヨ 下津井入れヨ ままよ浮名が辰巳風ヨ
     トコハイ トノエ ナノエ ソレソレ」

 バスから降りて下津井の街並みを散策しようとしたら、「まだかな橋欄干の親柱」と題した気になる案内板が立っていた。そこには、「下津井湊には、江戸期から北海道の特産物を満載した北前船や諸国の物産を積んだ船などが数多く寄港していた。陽も沈み町の行燈に赤い燈がともると中波止の橋のたもとから船頭や船乗りたちに「まだ(遊郭にあがらん)かな」と、声をかける婆(ばば)がいた。いつとなく「まだかな橋」と呼ばれるようになった。この親柱は、湾岸道路建設のさいに下津井が埋め立てられるまで、橋の欄干に用いられていたものである」とあった。

 ここにある中波止とは何だろう。調べてみたのだが読み方も意味も分からない。波を弱めるために海の上に掛けられた橋のことか。夕暮れが近づいた街並みを歩きながら、消え去ってしまった「まだかな橋」を偲んでみた。下津井からは瀬戸大橋が直ぐ近くに見える。前近代と超近代が交錯し、前近代が圧倒され超近代が凌駕しているかのような、何とも対照的な光景であった。時代遅れの私は、超近代になど何の興味も関心も湧かなかったのではあるが…。立派な超近代だけがすべてではなかろう。この日の夜は何故だか一人で飲みたくなり、ホテルのフロントで教えてもらった近くの居酒屋に顔を出した。

(追 記)

 先日知り合いと雑談を交わす機会があった。私がこの夏倉敷に調査に出掛けたのだと話したところ、「下津井には行きましたか」と尋ねられた。行ったと答えたら、さらに「蛸を食べましたか」と聞かれた。食べなかったと返事をしたら、「それは残念なことをした」とのこと。また別の知人とも岡山の話をしているうちに、そこでも下津井の蛸の話が出た。そんなに旨いものなら食べればよかったと思ったが、もはや後の祭りである(笑)。