仲春の加賀・越前・若狭紀行(六)-北前船と加賀-
前回の江差の話は付録のようなものなので、もう一度北前船の話に戻し、今度はさらに具体的に、北前船の一年がどんな様子であったのかを、我々が訪ねた橋立に瀬越や塩谷も加えた加賀の船乗りたちを例に取り上げながら、紹介してみよう。この話も先のカタログである『北前船と大坂』によっている。
たまたまそこに加賀の話が載っていたのを見付けたので、ここで紹介しておきたくなった。冬の間大坂に北前船を係留していたのは、主に加賀の船主たちだったので、そのために加賀の話が『北前船と大坂』登場することになったのであろう。それだけ大坂との繋がりは深かったのである。
さらに推測すれば、わざわざ加賀の話が登場しているところを見ると、カタログにあった文章は、もしかしたら、牧野隆信の研究を下敷きにして書かれたものなのかもしれない。北前船と大阪の関係を語ろうとした時に、彼による加賀の北前船の研究は大きな役割を果たしたはずだからである。
また、先に紹介した高田宏の『日本海繁盛記』にも、このあたりのことは詳しく描かれている。こちらも、以下の叙述において活用させてもらっている。現在の私は、北前船の経営の話には興味がないとまでは言わないが、どちらかと言えば、北前船に関わる生身の人間の生態や哀歓や盛衰の方に、面白さを感ずるし強く惹かれるのである。私という人間の性分なので、これもやむをえまい。
話は、春の祭りが終わったところから始まる。今では春の祭と言っても私などにはピンとこないが、昔は豊作を祈る祈年祭や氏神祭、疫病祭などが各地で行われていた。これらの祭が済むと、村人たちに見送られて、船乗りの若い衆がそろって村を出立する。これを「総立ち」と言ったらしい。
現在では、「総立ち」と言うとその場にいる全員が立ち上がることを意味することがほとんどであるが、もともと、全員が出発するという意味もある。ここで言う「総立ち」はもちろん後者である。毎年繰り返されていることとは言え、危険の大きい航海であり、しかも長い別れとなるので、出掛ける側にもそしてまた村に残された側にも、さまざまな思いが去来したことであろう。
敦賀までは徒歩か船で行き、そこから先は、琵琶湖の西を廻る若狭街道を歩いて京都まで行く。今は鯖街道として知られる若狭街道を通れば、京都までは「京は遠ても18里」と言われた距離である。それほど遠くはない。そして大阪へと辿り着く。
大阪では、船囲いして係留しておいた船を修理するとともに、船に積むための商品を買い集めるのである。主として酒・木綿・古着などを積んだようだ。そして3月末から4月の初旬にかけて、大阪を出帆する。こうして加賀の北前船の新たな年の航海が始まるのである。
日本海側に出るまでに、瀬戸内海の多度津(たどつ)、下津井、玉島、尾道、竹原、下関などの港に寄港し、紙・塩・砂糖・蠟などを買い込んだようである。日本海側では浜田、境で米・鉄などを積み込み、小浜、敦賀では縄・筵(むしろ)・叺(かます)などの藁(わら)製品を積みんだとのことである。そして、蝋燭の原料となる生蠟(きろう)などが売られた。
郷里の橋立に差し掛かると、「親方前」といって半日だけ沖合に錨を降ろして停泊し、船頭たちは艀(はしけ)に乗って浜に上陸した。橋立には(瀬越や塩谷にも)、北前船が停泊できるような港は無かったからである。船主の家に立ち寄って挨拶し、それから蝦夷地に向かったのだという。
北前船の沿岸航海には、地乗りと沖乗りの二つの方法がある。地乗りは岸沿いを航海する際の方法であり、船上から陸地の目標物を確認しつつ航行する。しかしながら、港と湊の距離が離れてくると、あるいはまた、航行の速度を上げようとすると、陸の見えない海上を航行することになる。日本海側に出れば、当然ながら沖乗りが多くなったであろう。
加賀からは直江津、新潟、酒田などに寄港して、米や酒などを積み込んでいる。そして、船が北海道に着く頃には、練の〆粕作りも終わっているので、〆粕をはじめ各種の海産物を買い入れることになる。ここでの積荷が莫大な利益をもたらすので、もちろん積めるだけ積んだようだ。残された写真などを見ると、まさに満杯である。
北前船は8月中には北海道を出帆した。台風が近付く二百十日を外海で迎えると海難の危険が高まるので、それを避ける必要があったからである。そのために、能登や隠岐などを経由しつつ一路下関を目指して上って行った。瀬戸内海に入ると、各地の商況を聞き合わせながら、それぞれの商品を有利な価格で販売できる港で売り捌いた。そして、秋の終わりか冬には終着地の大阪に戻った。
船は木津川の河口近くに船囲いし、番人を置いて係留しておいたとのことである。木津川から分流し、河口近くで再び合流する三軒家川は、その頃、日本海が荒れる冬の間船を係留しておく恰好の場所だったのである。当時の三軒家川は、係留した加賀の千石船で水面が見えないほどだったという。何故川に係留したのかというと、真水に曝すことによって船材を食い荒らす船食い虫を退治する効果もあったからである。
大阪に着いた船乗りたちは、必ず住吉大社に参詣した。ここが、朝鮮半島に出兵したと「記紀」に伝えられる神功皇后と、その皇后を守護した三柱の航海神を祀る神社として崇められていたからである。航海を無事に終え稼ぎをあげられたことに、深く感謝したのであろう。もっとも、神功皇后の話などはもちろん神話の世界の作り話に過ぎないのであるが…。
加賀の船乗りたちは、大晦日も近づいた頃になると歩いて郷里まで帰って行った。正月(もちろん旧正月のことである)を故郷で迎える彼らは、地元の神社に奉納するために、大坂の絵師に作らせた船絵馬を携え、大坂を後にしたのである。そして、再び京都から若狭街道を通って加賀に戻った。先の高田は、その様子を次のように描いている。
長い航海のあとだが、足どりは軽い。船頭はもちろんのこと、それぞれに懐中はあたたかい。妻や子供たちの、あるいは母親の、無事再会を喜んでくれる顔を思い浮かべながら足を早めたことだろう。背中の柳行李には家族への土産物が入っている。船頭の行李には大坂の絵師に描かせた船絵馬も入っているかも知れない。今年の航海の無事と商売の成功を感謝して村の神社に奉納する絵馬だ。
読んでいるこちらも、いささか浮き浮きする(笑)。家に帰りつけば、船中での厳しい生活からようやく解放されて、ほっとしたことだろう。夜も安心して眠ることができる。正月が終わると、船主や船乗りたちは山中、山代、粟津などの温泉場に出掛けたという。いずれもすぐ近くにある温泉場である。こうした温泉場に逗留して、長い航海の疲れを取り、英気を養ったのであろう。
正月も済み春が巡ってくれば、再び「総立ち」の日が近づき、船乗りたちは大阪に戻ることになる。そしてまた新しい年の航海が始まるのである。日本海の海は冬は荒れるので、船乗りたちは何もすることができない。この冬の間のみが、船乗りたちと北前船の短い休息期間だったのである。そんな1年だったらしい。