仲春の加賀・越前・若狭紀行(八)-北前船主の館右近家を訪ねて(続)-
ここは、右近家12代目の当主が本宅等の管理を旧河野村に委ねたのを機に、建物の公開と同家の廻船経営に関わる資料の展示を目的として、1990年に開館している。その後、2015年には右近家の近くにある中村家住宅が、国の重要文化財に指定された。
中村家の場合、建築当初の姿をよくとどめているだけではなく、伝統を継承しつつも近代的な様式が段階的に導入されていたり、増改築の過程で多くの古文書が発見されたりしたことから、指定に至ったのだという。われわれが通りから眺めた際には、現在内部を補修中でオープンまでもうしばらくかかるとのことだった。
ではその右近家であるが、どんな歴史を辿ったのであろうか。そこに興味が沸くし、ガイドの方が熱心に話されたのもそこである。その話や現地で手にした散策ガイドによれば、右近家の初代は、江戸時代の前期に菩提寺である金相寺より土地、屋敷、船などの資産を譲られて独立し、右近権左衛門家を起こしたのだという。
右近家の廻船は、最初は近江商人の積み荷を運ぶ「荷所船」として活動していたのであるが、そのかたわら、自ら商品を仕入れて販売するいわゆる買積み商いをするようになり、北前船の船主へと発展していくのである。先にも触れたように、北前船の商いは常に危険との隣合わせであり、海難によって船や積荷を損失することもあったが、9代目の権左衛門の時代に飛躍の機会が訪れたようである。
彼は17才の時から右近家の廻船に自ら船頭として乗り込み、北前船の運航と寄港地での情報収集など廻船経営のノウハウを体得したという。この経験が、商機を見逃さず、幕末から明治中期にかけての北前船の最盛期を生き抜き、右近家を日本海沿岸有数の北前船主に成長させる原動力となった。
9代目の活躍によって、幕末には北前船を11艘所有し、利益は12,000両にも達していたというる。続く10代目も父同様に積極的に北前船の経営を行い、右近家の所有した北前船は10代目の時には17艘を数え、千石船の大船団となっていったのである。
しかしながら、電信などの情報網の発展によって、買積み商いによる廻船経営は先の見通しがないことを悟った10代目は、明治20年代に小樽に右近倉庫を構え、その後大阪に右近商事株式会社を設立する。大阪と小樽を拠点として、所有する廻船を西洋型の帆船から蒸気船に切り替えて、大量の商品を運びその運賃を稼ぐ経営へと転換していく。
日露戦争直後には、右近家の所有した蒸気船は7隻、その総トン数は2万トン余に達しており、名実ともに近代船主に脱皮している。一方で10代目は、日本郵船会社の北海道進出に対し、加賀や越中の北前船主らとともに北陸親議会を結成して対抗している。
さらには、北前船主が共同で運営する海上保険会社の必要性を痛感していたこともあって、日本海上保険株式会社(現在の損保ジャパン日本興亜の前身)を設立するなどして、北前船主のリーダーの一人として活躍するのである。このあたりが、他の北前船の船主たちとは違っているところなのであろう。
北前船によって生み出された富は、北前船が斜陽化していくなかで、何処に向かったのであろうか。船主は、儲けた金を貸し出して利子を得る高利貸し業を営んだり、農村の地主に転じたり、保険会社を設立したり、銀行や電力企業の重要ポストについたりしている。その他に、倉庫業や水産業、醸造業を営んだ者もいる。しかしながら、うまく転身できた者はごく僅かで、数多くの船主があっという間に没落していった。
そうした大きな流れの中で、右近家の歴史を振り返ってみると、どんなことが見えてくるであろうか。先を見通す先見性や的確な判断力、積極的な経営、そして大胆な決断といったような、美辞ではあるが、ささか陳腐な言葉があれこれと浮かんでくる。
言い換えれば、「企業家精神」の原型とも言うべきものであろうか。私のような素人がそうしたことを語ったとしてもても、何処かで聞きかじったような話にしかならないが、経営史や商業史の専門家であれば、大いに興味をかき立てられるのではあるまいか。
この右近家のすぐ側には「どっときたまえ」と名付けられた観光案内所があり、そこには「畝来」(ウラと読ませる)という変わった名前のレストランが併設されていた。その意味も聞いたのだが、よく分からなかった。読めないし、意味も分からない名前のレストランとは不思議である(笑)。だからこそ、気になって記憶に残るのかもしれない。
われわれはそこで簡単なフレンチのコース料理を食べた。出されたものすべてが美味だったので、正直驚いた。生意気な言い方で恐縮ではあるが、こんな田舎でここまで美味い料理にありつけるとは思っても見なかったからである(笑)。食べ物に関する話の続きは、最終回に纏めて紹介してみたい。
店のホームページには、「すべての人々が安心して食べることのできる食づくりをしていきたい。そんな思いが募り畝来は生まれました。身体に優しい食事とともに室内からみえる日本海と日本庭園を五感で感じながら大切な人と心地良い時間を過ごし、心も身体もくつろぐ時間になりますように」と書かれている。「畝来」で「心地よい時間」や「くつろぐ時間」を過ごしたためか、不謹慎な私は右近家の印象が薄くなりかけた(笑)。