仲春の加賀・越前・若狭紀行(二)-「北前船の里資料館」にて-
金沢には中継地として宿泊しただけだったので、翌日からが本格的な調査旅行の始まりとなった。まず最初に訪れたのは、加賀市の橋立(はしたて)にある「北前船の里資料館」である。この資料館のある加賀市は、石川県と福井県の県境近くに位置している。今回の調査旅行に出掛ける前に、資料館のホームページを眺めていたら、そこに販売書籍の案内があった。
柄にもなく事前に勉強しておこうと思い(そしてまた荷物を少なくするために)、ここから刊行されているものをすべて購入しておいた。それを紹介しておくと、解説書『日本海の商船 北前船とそのふる里』、写真集『北前船の遺産』、図録『引札の世界ー北前船がもたらした華麗なる広告チラシー』、そしてもう一つの図録『海商の風雅とその遺産ー北前船主酒谷家旧蔵コレクション展ー』の4冊である。
これだけのものを刊行しているぐらいだから、資料館には価値ある資料や名品が揃っているのであろう。展示されているのは、橋立に残されたものだけではない。私は図録にはそれほど興味が沸かなかったが、解説書と写真集には読み応えのある文章が掲載されていたので、丁寧に眺めた。
解説書を書いているのは、北前船研究の第一人者である牧野隆信(まきの・りゅうしん)である。彼の存在なくして、この資料館は開館できなかったであろう。そして、写真集には、作家であり随筆家としても著名な高田宏が、「北前船村の夫婦墓」と題した面白い文章を載せている。
牧野隆信は加賀市の出身者で、県立大聖寺(だいしょうじ)高等学校の教員を務めた郷土史家でり、また、元全国北前船研究会の会長であったことからもわかるように、北前船研究の第一人者でもある。昭和30年代から、当時はあまり注目されていなかった北前船の研究に着手したのだという。
彼の研究は大きな反響を呼び、日本海文化論の先駆けとなったのみならず、その著書『北前船』(柏書房、1964年)により、北前船という呼称が一般化することになったようだ。日本の近代化以降、太平洋側は「表日本」日本海側は「裏日本」と呼ばれたが、北前船の存在とその活躍に光が当てられたことも、史実を無視した傲慢な呼称を修正させるのに、一役買ったのではあるまいか。
写真集に巻頭言を書いているのは、高田宏である。彼は、現在は加賀市に編入されている大聖寺町の生まれで、もの書きとしてじつに夥しい数の著作がある。私が興味を持って精読したのは『日本海繁盛記』(岩波新書、1992年)』と『雪日本 心日本』(中央公論社、1985年)ぐらいなので、彼に関して何かを語れるわけではない。ただ、彼の描く日本海を心に思い浮かべると、なぜだか妙に郷愁に駆られてうっとりする。
たとえばこうだ。「とりわけ冬の日本海を見るのが好きで、雪を踏んでたびたび出かけたものだ。横なぐりの吹雪のなかで、マントの襟を両手でにぎりしめ、暮れてゆく海に無数の白い波頭がおどるのを見ていた。海のとどろきが天地をみたして響きわたり、耳もとを吹雪の風が唸ってゆく。家のことも学校のことも頭から消え、いまどこにいるのかさえ、あやふやになる時間だった」。
あるいはまたこうも書いている。「学校から帰ってひと走り、落日の海もよく見に行った。季節により、天候により、一度として同じ光景はないのだが、たとえばもう二学期の始まっている初秋、残暑のころの海に、赤い巨大な太陽が沈んでゆくとき、金と赤にきらめきわたる海がひっそりと鎮まる夕凪の時がやってくる。夕陽に染まった空と海がしんと静まり、浜に寄せた波が引いてゆく砂の音だけが聞こえてくる」。
面白いエピソードとしてここに紹介しておきたいのは、『日本海繁盛記』のあとがき読むと、高田が高校生の時に日本史の教員だったのが牧野隆信だったということである。何とも不思議な繋がりがあるものである。そんな不思議な繋がりということで言えば、資料館が作成した『引き札の世界』を眺めていたら、そこに富山県の伏木で廻船問屋を営んでいた堀田善右衛門の名があった。作家堀田善衛の曾祖父である。
話を元に戻すと、牧野隆信の長年の研究成果を踏まえて、素人にも易しく読めるように解説したのが先の『日本海の商船 北前船とそのふる里』(1985年)である。初版が出てから現在までに9版と版を重ねているので、資料館を訪ねた人々に広く読まれているのであろう。北前船の全貌を知るには手頃なハンドブックである。
われわれが訪問した「北前船の里資料館」について、簡単に紹介しておこう。ここには、江戸時代から明治の中頃にかけて瀬戸内、日本海、北海道を舞台に活躍した「北前船」に関するさまざまな資料が所狭しと展示されており、私自身も陳列された品々や資料を興味深く眺めてきた。
まずは船絵馬である。北前船に関係した地域の神社には、よく船絵馬が奉納されている。これは、船主や船乗りたちが航海の安全を祈願して、あるいは無事航海を終えることができたことに感謝するために、地元の神社に奉納したものである。船模型もあった。これは、船を新しく造った際に、船大工から船主に贈られるもので、多くは実物の20分の1の大きさだという。各地に船模型があった理由を、私はここで初めて知った。
さらに、海上で船頭が他の船や陸地を見るために、あるいは問屋の主人が港に入ってくる船を確認するために使ったという遠眼鏡や、船の中で大切な書類やお金、着物などを入れておいた船箪笥も陳列されていた。海難に備えて、海に投げ込んでも水が入らないようにきっちり作られているのだという。
船の針路を知る和磁石や海図などもあった。現在の広告チラシである全国各地の引き札は別室にあるようで、実部とを見ることはできなかったが、図録を見れば、北前船による取り引きが広範囲に及んでいたことがよく分かる。北前船が立ち寄った港は、全国で100近くあったのだという。そして、各地の主だった港には、船乗りたちを相手にする遊郭が生まれていくのである。