今年の桜を追って(続)

 前回は、年金者組合のウオーキングに参加して上瀬谷の海軍道路の桜を見てきた話を投稿したが、今回も桜に関する話を続けてみたい。3月の末から4月の初めにかけて、歯の治療のために3回ほどかかりつけの歯医者に出掛けた。何時もてきぱきと治療してくれるので、私はこの歯医者を気に入っているのだが、そういうところは当然ながら他の患者の評判もいいので、いつもそれなりに混んでいる。予約しておいてもある程度は待たされる。

 病院の待合室は感染に注意した方がいいと聞いていたので、しっかりマスクをして出掛けた。そうしたら、案に相違してそれほど混んではいなかった。時期が時期なので、他の患者の人たちも待合室で待ちたくなかったのであろう。そんなわけで、たいして待つこともなく治療が始まり、何時ものようにてきぱきと処理してもらい、治療は無事にすんだ。入口を出たら、外は春のうららかな陽気に包まれており、日差しも眩しいほどだった。
 
 いつものようにそのまま帰宅してもよかったのだが、歯の治療もたいしたことなく済むことになり、安堵した気分だったこともあって、少し近くを散策してみる気になった。じつはこの歯医者は、横浜線の鴨居駅の側を流れる鶴見川の土手の近くにある。川には鴨池橋という名の立派な橋が架かっており、この橋を渡ると駅である。すぐ側に川が流れ橋が架かっていることは知っていたが、土手を散策したことはこれまでに一度もなかった。

 土手に出てみて驚いた。桜の花が満開だったからである。桜並木が長く続くのは対岸の方だが、手前の土手にも桜が咲いていた。もしかすると対岸は人出が多いかもしれないと思い、橋を渡らずに手前の土手を歩くことにした。たまにランニングする人や子供を連れた家族連れとすれ違ったが、ほとんど人はいない。野の花や草木の新芽に春を感じながら、のんびりとぶらついたのである。こうした歩き方は、散歩や散策と言うよりも、遊歩や閑歩のほうがぴったりするような気がした。

 ゆったりと春の川が流れ、対岸には桜の並木が霞んでいるかのように見え、土手には緑が広がり、しかも空は澄んだ青空である。川を挟んで対岸の桜を見るような経験は初めてである。桜の樹の下をそぞろ歩くのも悪くはないが、遠くから眺める桜もなかなかいいものである。こんな景観を楽しみながら歩くことなど、これまでであればいつでもできることなので、どうというほどのことでもなかったはずであるが、今はとても贅沢なことのように感じられた。

 そんなふうに感じたのは、この間世の中が激変して、日常の空間が非日常の空間に変わっていたからであろう。日常の素晴らしさをあらめて意識することになった。「災い転じて福となす」ということか(笑)。後で調べてみたら、この鶴見川の土手はよく知られた桜の名所だった。海軍道路の桜もそうだったが、この鶴見川の桜もこれまでまったく知らなかった。相変わらず世間に疎い私である。

 そんな体験をしたものだから、同じような喜びを味あわせてやろうと思い、数日後に小僧二人を連れてまた同じ場所に出掛けた。この日も実にいい天気だった。近くのコンビニでおにぎりとゆで卵とちょっとしたお菓子を買ってきたので、土手の下まで降りて三人で食べた。そんな昼食でしかなかったのに、何だか特別なご馳走のようにも感じられた(笑)。小僧二人は、桜よりも川に足を入れて遊びたかったようで、水辺で楽しそうにはしゃぎ回っていた。年下の方は服まで濡らしてしまったが、それが余り気にならないほどの暖かさだった。

 土手では、若い女の子がトランペットを吹いていた。吹奏楽部にでも所属していて、河原で練習していたのであろう。何だか絵になりそうな光景である。聞くともなしに聞いていたら、映画「ニュー・シネマ・パラダイス」で繰り返し流れていた音楽が聞こえてきた。エンニオ・モリコーネの名曲である。この映画を最近見直したばかりで、しかも新たな発見がたくさんあったので、切ない気持がまた溢れてきた。特別なことなど何もなかったはずなのに、心に残る春の一日だった。 


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