シルク博物館にて
選挙の結果やら自分の病状やらを書き連ねていたら、2月の半ばに出掛けた話を書き忘れていたことに気が付いた。同じ団地に住む写真家のSさんから、所属するサークルの写真展の案内状をもらったので、運動不足の解消をかねて出掛けてみたのである。場所は関内にある県民ホールの一角だったが、そこに辿りつくまでに道に迷い、うろちょろしてしまった。彼の所属するサークルは、モノクローム写真の愛好家だけが参加しているとのこと。そんな写真ばかりがずらりと並んでいると、それだけで何となく玄人っぽい感じがする(笑)。色彩に頼らずに、光と影だけで被写体を捉えようとしているからであろう。
Sさんは昨年の2月に連れ合いの方をなくされた。他人の私には、彼の心境など推し量れるはずもないのだが…。そのためもあってなのか、出品していた写真のすべてが暗い色調を帯びた作品だった。光と影のうち、陰の部分が大きな比重を占める写真だと言えばいいだろうか。私はそんな写真が好きだったが…。一通り見て回った後、このホールの6階にあった「英一番館」という名のレストランで、海を眺めながら昼食を食べた。名前が立派な割には案外庶民的なレストランであった(笑)。窓からの眺めが素晴らしい。
せっかく出掛けてきたのだからと、食事の後にあたりを散策してみることにした。そうしたら、すぐ側に「シルク博物館」の標識が目に留まった。この博物館の名前だけは聞いたことがあったが、まだ入ったことはなかったので、この機会にと思って見学してきた。群馬に出掛けた折りに、生糸をめぐる話をあちこちで見聞きしたので、ついその気になったのである。館内はひっそりとしており、いささかうらぶれた感じさえしないでもなかった。入口には「絹と乙女」と題した銅像が建てられており、その周りには桑の木も植えられていた。手にしたリーフレットには、この博物館が次のように紹介されている。
シルク博物館は横浜開港百年記念事業として、神奈川県・横浜市 関係業界の協力によって、1959年(昭和34年)3月、絹の貿易によって栄えたこの地、開港当初英国商社ジャーディン・マセソン商会(英一番館)のあった場所に開館しました。ここでは、「かいこ」 から製糸、染織など、「絹ができるまで」の過程をはじめ、古代から現代に至るまでの絹服飾の移り変わりを見ることができるほか、蚕糸・絹業の変遷や絹の染織工芸の名品、和洋にわたる現代の優れた絹製品の数々を展示しています。「絹のすべて」が学習・鑑賞できる世界でも数少ない博物館です。
昼食をとったレストランの名前は、ここに由来していたというわけである。館内には、開館60周年を記念して作成された冊子『”かいこ”と暮らす』と『白き糸の調べ』が置いてあったので、購入し帰宅してから眺めてみた。関東甲信越や東北の産地から生糸が横浜に集められ、そこから、初めはイギリスその後アメリカに輸出され、外貨の獲得に大きな役割を果たしたことはよく知られているが、ここ神奈川の地も養蚕や製糸が盛んなところであったようだ。県内各地に器械製糸工場が設立され、これにともなって養蚕農家も急増し、明治30年代半ばには4万戸を超えたのだという。だが、2010年には養蚕農家はすべてなくなり、養蚕の歴史に幕を閉じた。
生糸に撚りをかけたものを撚糸といい、 絹織物は撚糸を原料としている。 神奈川で撚糸業がもっとも盛んだったのは、愛甲郡の愛川町(あいかわまち)にある半原(はんばら)であったようだ。ここは「糸の町」として全国に知られているとのことだが、私はまったく知らなかった。 半原で撚糸業が始まったのは19世紀の初め頃であり、中頃 には水車による動力が利用されるようになり、最盛期には400基を超える水車があったのだという。想像するだけで壮観である。昭和30年代には集団就職の若い女工たちがあふれて、メインストリートが「半原銀座」と呼ばれるほどの活況を呈したらしい。現在では 絹の撚糸工場はたった1軒となったとのことだが、化繊の撚糸工場は現在も半原の地で操業している、と書かれていた。
もはや昔の面影など何も残ってはいないのだろうが、田舎の町にたとえ俗称ではあれ「半原銀座」があったとは驚きである。その繁栄ぶりは、昭和に入ってから「半原の唄」が作られたことにもうかがわれよう。作詞は「夕焼小焼」で知られる中村雨虹(なかむら・うこう)であり、この唄はスマホでも聴くことができる。因みに、半原小学校の校歌の作曲者は古関裕而だとのこと。こんなことを知るにつけ、物好きな私は急に半原に出掛けてみたくなった。繁栄から衰退へと向かったこの地に、歴史の残照を見たいなどと思ったからである。そんなものが後期高齢者のたんなる感傷に過ぎないことなど、重々わかってはいるのだが…。
PHOTO ALBUM「裸木」(2023/04/16)
シルク博物館にて(1)
シルク博物館にて(2)