もらった礼状から

 毎年シリーズ「裸木」の冊子が出来上がると、はた迷惑も顧みず知り合いの方々に勝手に贈呈している。老後の道楽で作っているものなので、わざわざ礼状などはいりませんからと同封の手紙に書くのだが、それでも何人かの方は、全文に目を通したうえで丁寧な礼状を送ってくれる。褒め言葉がそっと添えられていることもある。私などには、やろうとしても出来ない情の厚い振る舞いだと言うしかない。そんな礼状をもらえば、私のような単純な人間は素直に喜ぶことになる。顔には出さない(出ない)ようにしているが、内心は嬉しいからである。だが、そうした嬉しさよりも先に立つのは、いつもいつも何とも申し訳ないとの気持ちである。

 皆それぞれにやらなければならないことがあって、日々慌ただしく過ごしているにも拘わらず、冊子に目を通してもらったうえに礼状まで書いてもらっているわけだから、こちらは恐縮至極となってしまうのである。今回礼状の多くが触れていたのは、冊子の第二部に収録した「騒がしきことなど」である。私も非常に気になったからあえてブログに一文を載せ、それを冊子にも収録したのである。『しんぶん赤旗』を読んでいると、松竹伸幸さんに対する除名処分などは、反共攻撃に一括りされた出来事のような取り扱いとなっているが、余波は依然として続いている。ことの重大性からして当然であろう。この話に関しては、すでに「(続)騒がしきこと-その後の松竹問題雑感-」と題して3回に分けて触れておいた。

 今日紹介したいのは、この話題とは違って、田舎のAさんからもらったちょっと異色の礼状である。彼は福島の中学校の同窓生なので、名前も顔も知ってはいた。しかしながら、特に親しい間柄だというわけではない。先年亡くなったフリーのライターであったKは、Aさんとは小学校以来の知り合いで大分親しかったようだ。昔Kと飲んだ時、Aさんから送られてきた福島名産の梨をお裾分けでもらったことがあった。また、KはAさんに自分の著書をいつも贈呈していたようで、その礼状を読ませてもらったこともあった。AさんがKの歴史小説を褒めていたので、Kも嬉しかったのであろう。そんなふうに、Aさんは何とも心優しい人なのである。

 Kが亡くなってからしばらくして、Aさんから私に電話があった。Kが亡くなったこと、そして私がKが亡くなるまで付き合いがあったことを、田舎の誰かから聞いたのであろう。香典を送りたいのだが、送り先を教えて欲しいとのことだった。そんなことから私はAさんと知り合いになり、Kのことに触れた文章を載せた冊子を送った。そうしたら、たいへん丁寧な礼状をもらったので、今回もまた続けて贈呈することにしたのである。Aさんは、田舎で高校の国語の教員をしていたようで、文学にも関心が高いようだった。

 ところで、Aさんの父親は私が通っていた小学校の校長をしていた。私にはその威厳ある佇まいばかりがやけに印象深かった。いい加減な記憶力の私なのだが、名前を今でも良く覚えている。ついでに書いておけば、この小学校の校訓が「終始一誠意」であったことも覚えているし、事務職に髪の長い美しい女性がいたことも忘れられない(笑)。父親が小学校の校長をしていたことからもわかるように、Aさんの家は教育一家だったのかもしれない。その彼から今回次のような礼状をもらった。大事なところだけを紹介してみる。

 さて、まだ全体の精読ができず、 とりあえずの感想で申し訳ありませんが、一言だけ、 第三部の富岡や桐生、碓氷の女工の話で思い出したことについて申し上げます。40年前になりますが、 二本松市の安達高校に定時制課程が併設されていたとき、 小生は4年間勤務したことがあります。 男子生徒は市内のゴム長靴製造の工場に勤務する者が大半でしたが、女子生徒も、 ほとんどが山間部の中学校から市内の製糸工場に就職して来ていました。 8時から5時まで勤務した後、寮で制服に着替え、4年制課程の定時制に登校してきます。教室は昼の生徒たちの使った教室ですが、 仕事の疲れをものともせず、彼女たちは嬉々として登校し、まず給食をとり、その後4校時の授業を受けて、9時半頃下校します。男女とも4年間に色々なことがあり、生徒全員が卒業することは難しかったのですが、皆よく頑張りました。

 ただその中で、 女生徒が、 製糸工場の仕事の苦労をもらす時もありました。富岡製糸場の時代と異なり、人が直接繭から操糸するのではなく、 機械による操糸を移動しながらチェックして、切れているのをつなぐのですが、朝は冷たい水の中に繭が浮んでいますので、そこに手を入れて糸口を操糸器に繋がなければいけません。冬は湯が温まるまで(これがなかなか時間がかかるそうです)がまんして凍える指で作業をします。逆に夏は湯が熱すぎて、指がやけどするほどで、湯気と換気の悪い建屋全体の熱気でふらふらする時もあるそうです。また、湯槽に入れるいろいろな薬によって、肌の弱い生徒は手指に湿疹ができて、痛いのを我慢して作業したようです。

 そして、貴著にも出ていましたが工場全体のあの湯の中の繭の匂いが、毎日働く者にとっては、苦しさを思わせるような嫌な臭いだったと言う者もいました。安い月給のなか、家に仕送りをする生徒も多く、皆我慢して働いていましたが、その分、夜になると学校に行って、給食を食べて、友達と話もできて、楽しかったのですね。 授業は二の次でした!今年は、母体の安達高校が創立100周年を迎えて、記念式典等があるのですが、そのうちの半分の約50年併設されていた定時制 ( 10 年前に廃止になりました)もお祝いされるということで、小生も出席してまいります。色々な人に会えるのが楽しみです。

 Aさんの手紙には以上のようなことが書かれていた。定時制高校に通う生徒たちから製糸工場での仕事の苦労話を聞いていただけではなく、それを今でも詳しく覚えていて、わざわざ私宛の手紙に書いてくるAさんは、きっと立派な教師であったに違いないなかろう。私は冊子で次のように書いた。「工場内を移動しているうちに、そこに漂っている臭いから、昔の記憶が急に蘇ってきた。私が育ったのは福島市の五月町であるが、そこにも当時小さな製糸工場があり、そこの臭いと同じ臭いだったことを思いだしたからである。 繭を煮た時に出る臭いである。(中略)今『臭い』と書いたが、記憶の中にあった懐かしい臭いだったので、もはや『匂い』と書きたくなるような思いであった。そんなものは、年寄りのたんなる感傷に過ぎないのではあろうが・・・」。

 私のこうした思いが感傷に過ぎないことが、Aさんの手紙であらためてよく分かった。彼が書いているように、「毎日働く者にとっては、苦しさを思わせるような嫌な臭い」だったのであろう。当然である。思い返せば、昔の福島の暮らしには何とさまざまな臭いが溢れていたことだろうか。溝川、肥溜め、馬糞、汲み取り便所等々。今日では、消臭や脱臭や無臭の世界が広がったこともあって、気になるような嫌な臭いは、周りからほとんど消え失せている。そんな臭いはもはや記憶の中にしか残ってはいない。それだからなのか、思い出の中の臭いには、どうしても匂いと書きたくなるような甘酸っぱさばかりが漂っている。12月には久しぶりに田舎で同窓会が開かれる。Aさんは幹事の一人なので、必ず会うことになるだろう。亡くなったKの思い出話などを語り合うつもりである。

 

PHOTO ALBUM「裸木」(2023/12/03

冬近付きて(1)

                                                          

冬近付きて(2)

 

冬近付きて(3)