ある冊子の序文を書く
もう一つの小さな文章は、ゴールデンウイーク中に書いたある冊子の序文である。知り合いの山崎さんが長年にわたって書き継いでこられた文章を、この度一冊の冊子に纏めて刊行する運びとなったようで、その序文を書いてくれないかと頼まれた。頼んできたのは、詩人でもある北嶋さんである。彼は、「詩人会議」の事務局長でペンネームは洲史(しま・ふみひと)という。読むのが何とも難しいペンネームである(笑)。しばらく前から、山崎さんや北嶋さんとは地元の社会運動で顔を合わせるようになり、馴染みとなった。山崎さんは、私の住む都筑区の年金者組合の役員をしておられたこともあり、私も会員となったので親しく話をするようになった。
その山崎さんには、おそらく原稿料など一切払わずに長年書いてもらってきたはずだから、その罪滅ぼしもあって冊子にする話が持ち上がったのではあるまいか(笑)。私の勝手な想像ではあるのだが、当たらずとも遠からずであろう。まだ現物は出来上がっていないが、もうすぐ立派な冊子となってわれわれの前にお目見えする手はずである。
私がこの序文を書くことを頼まれたのは、山崎さんの書かれたものを面白く読んできたからであろう。私はそんなことを周りに広言もしてきたのであるが、ではなぜ熱心な愛読者になったのであろうか。社会運動がらみのビラやパンフに載る文章は、何処かにある種の定型を感じさせる文体があるようで、政治や経済や文化に関して「清く正しく美しく」書かれたものが多い。間違ってはいないのだから何も文句を言う筋合いではないのだが、私のような臍曲がりの人間には、ごくたまに味気なく感じられることもある(笑)。
山崎さんの書かれたものは、そうしたものとは少し違っている。「清く正しく美しく」あることに、いささかのためらいや羞恥を感じておられるからだろう。そこが彼の魅力でもある。そして、そこが私が引き寄せられる所以であり、序文を書く気になった理由である。以下の文章がそれである。周りには、読まれて気に障られる方がおられるかもしれない。ご本人に異存がなければそれでいいが、自由に直していただいてかまわないと伝えてある。さてどうなることやら(笑)。
「都筑小景」というタイトルの文章を最初に目にしたのは、いったいいつの頃だったのだろう。年を取ってくると記憶力の衰えは防ぎようもないので、今ではかなりぼんやりとしている。都筑区にある共産党の後援会は、「われもこう」と題した4ページ立てのニュースを毎月発行しているが、いつもその巻頭のページを飾っていたのが「都筑小景」であった。
最初は、「都筑小景」というタイトルがユニークに感じられて、読み出した記憶がある。内容は区内の名所旧蹟を紹介しただけの文章なのだろうと思っていたが、いささか違った。読んでみたらことのほか面白く、達意の文章に感心させられた。作者である山崎さんの美意識や感受性にもとづいて、近隣の身近な風景が切り取られていたからである。
考えてみれば、「都筑小景」といったタイトルを付ける人が、ガイドブックにあるような文章を綴るはずもない。小景と聞いて、室生犀星の「小景異情」を想い出す人もいるかもしれない。「ふるさとは遠きにありて思ふもの」という書き出しで知られる。もしかしたら、山崎さんにとってはここ都筑の地がふるさとになっていたのかもしれない。長期にわたって書き継がれてきたのは、きっとそのせいなのであろう。
退職後に私は山崎さんと顔見知りとなり、その人となりについても感じるところがあった。小景や小曲や小品などが好きな人は、自らを小人と自覚するような恥ずかしがり屋の人に違いない。煙草を吸い、競馬を愛好し、美しい女性に目がない彼は、そんなことぐらいよくわかっていることだろう。
このたび、「都筑小景」がカラーの写真入りで一冊の冊子に編み直され、多くの人々の手に届けられることになった。一読者として嬉しい限りである。その思いを伝えたくて、この序文を書かせていただいた。