「飲み会」三態(二)-退職した同僚たちと-
この間立て続けに3回ほど飲み会に出掛けた。それぞれに特徴のある飲み会だったので、この機会に、そこで感じたことを思い付くままに紹介してみることにした。今こう書き出したが、この文章を投稿する頃になって、さらに3回飲み会の予定が入った。毎回の飲み会の様子をいちいち紹介しているわけにもいかないので、「『飲み会』三態」の最終回には、残りを全部纏めて一気に紹介するつもりである。何だか十把一絡げのようになりそうな気配ではあるのだが…(笑)。
まずは、勤め先を同じ年に定年退職した元同僚3人の集まりである。SさんとFさんそれに私が集まったのだが、たかだか3年前のことなのに、どのようにしてこの顔ぶれとなったのかさえ今ではぼんやりしてきている。多分Sさんが発案者で、「たまには顔を合わせるのもいいよね」と言ってきたのではなかったか。そして2人よりも3人の方が話が弾みそうでもあったので、この組み合わせになったような気がする。
一度集まって飲み食いしてみたら話が弾んでなかなか面白かったので、年に2~3回ほど顔を合わせるようになった。妙に馬が合ったからである。たまにはまだ現役のHさんが加わることもあった。季節は巡って、その彼ももうすぐ定年なのだという。付き合いの広いHさんのことだから、3人の飲み会に何時も顔を出せるのかどうか分からないが、もしもそうなれば4人の集まりになるかもしれない。
これは私の勝手な推測であるが、Sさんは退職後しばらくして手術で入院したことなどもあって、気分転換を図りたかったのかもしれない、またFさんは得意な駄洒落を家では聞いてもらえないので(家族にとってはきっと迷惑なのであろうー笑)、我々に披瀝したかったのかもしれない。こちらはほんの冗談である。私はと言えば、家での家人との日常生活では満たされない、あるいはまた顔を出している市民運動の知り合い相手では満たされないような「雑談」を、気儘に交わしてみたいと思っていた。
誤解されないように付け加えておくが、元同僚たちとの「雑談」が、ハイレベルだなどと思っているわけではない。そうではなくて、ちょっとばかり話の質感といったものが違っているのである。違いはわずかではないかと思うが、そのわずかな違いが案外重要なのであろう。それを無視して相手構わず自分の思いを語れば、迷惑がられるのが関の山である。だから遠慮することになる。しかしながら、この3人の場では何の遠慮もいらない。この辺りの感覚は、同席した2人も共有しているのではないかと思われる。
飲み食いしたのは町田にある「梅の花」という店である。ここもSさんが見付けてくれた。彼が好みそうな店である(笑)。顔を出すのはこれで3度目となる。この店に落ち着くまではあちこち場所を変えていたが、ここに来て以来すっかり常連となった。みんなの家からも比較的近いし、個室も取れるし、料理も美味いので、定着したというわけである。いちいち店を探す手間もなくなった。年寄りは、あっちこっちの違った店に行きたいなどとは、あまり思わないのである。いい店が見付かれば毎回そこでいい。
我々が出向いたのは10月7日だったが、Sさんによると前回はちょうど1年前のこの日だったとのこと。コロナ禍で去年の忘年会は取り止めたから、文字通り1年ぶりの再会ということになる。3人とも元気で顔を合わせることができたので、ちょっと嬉しかった。Sさんも退院後の経過は順調だとのこと。趣味の世界にも顔を出し始めたようだ。そんなこともあって、久し振りに飲むビールがやたらに旨かった(笑)。
それぞれの人生に苦労は付き物だが、その苦労をあまり重たくならずに気軽にさらりと話せる関係が心地よい。隠す必要もない、自慢する必要もない、そして卑下する必要もない。他の元同僚の動静なども話題に上った。こうしたものも世間で言う噂話の範疇に入るのだろうが、既に仕事を終え老境を迎えた人間が話しているからなのか、いわゆる生臭さが薄まり何となく淡々としている。カミサンを亡くしたMさんの話などは、聞いていて胸が痛んだ。しかしながら何ができるわけでもない。ゆっくりでいいから、カミサンのためにも元気になって欲しいと願うだけである。SさんはそのうちまたMさんと連絡を取ってみると言っていた。相変わらず優しいのである。
3人の中で趣味の範囲が広くて高尚なのはSさんである。しかしながら、その趣味の話で長話をすることはない。聞かれれば話す、といった程度である。どの辺りが適当なのか、わきまえているからだろう。Fさんは、今でも研究所の調査旅行に顔を出して遠出しているくらいだから、なかなか元気である。調査旅行では駄洒落を連発しているとの噂話も聞こえてきたから、相変わらず「師匠」振りを発揮して「失笑」を買っているに違いない(笑)。家ではあれこれと苦労も多いようだから、いい気分転換になっているのであろう。Sさんは、自分も年なのだから「面倒な人と飲み食いするのは、もういいや」などと言っていた。その通りであろう。私も同じ気分である。妙に心に響く一言だった。
覗き趣味で人を眺め回すことが好きな(もう少し高尚に言えば、さまざまな人々の人生に対する関心が旺盛な-笑)私のことだから、「例えばどんな人」などと聞いてみたかったが、そういった愚問を発するような人間が「面倒な人」なのであろう(笑)。具体的な人物名を挙げれば角が立ちかねないし、もう少し一般的に定義しようとすれば、あれこれあってそれこそ面倒である。3人の間にぼんやりとした緩やかな共通項があれば、それで十分なのかもしれない。
落ち着いた部屋で旨い食べ物を口にしながらビールを飲み、、ゆったりとした時間が流れてゆくのに身を任せている、そんな雰囲気が何とも心地よい。そんな時、盛り上がる話があっても勿論いいし談論風発も結構なのだが、それが過ぎるとこのところいささか疲れる。居心地のいい場では、取り立てて大した話などなくてもかまわないのである。年寄りにとっての愉しい時間とは、そうしたこだわりのない寛いだ時間をいうのではあるまいか。世情の胡散臭さや俗物のみっともなさをあげつらうことなど、まあどうでもいいということか(笑)。
私が飲み食いしながらぼんやりと考えていたのは、老境に入ってきたのでできうれば味のある会話を交わしてみたいのだが、そのためには何が大事なのであろうかといったようなことだった。自分語りや他人語りに精を出すつもりはない。それこそ野暮だからである。しかしながら、それでも少しは相手を面白がらせてみたいのである。落語の枕のようなものか。私のような人間には枯れた話、言い換えれば深みのある渋さを感じさせるよう話は到底無理なので、「品のない話」を「とぼけた口振り」で「さらり」とやってみたいと思っているのだが…。
私が考えているような話は、誰もが愉快だと思ってくれるとは限らない。もしかしたら、不快だと思うような人だって世の中にはいることだろう。人間の芯の部分で清く正しく美しく生きることはきわめて大事なことではあろうが、何から何までそうであっては、本人もそうだが聞いている周りも疲れてしまうことだろう。ゆとりから生まれる柔らかさが必要なのではあるまいか。大事なことは丹田(たんでん)にしまっておけばいい、表面はもっといい加減で、だらしなくて、適当で、ふざけていていい、そんなふうに思っているのである。それは、言い換えれば「遊び」があるということでもあろう。
この先更に年を重ねれば、話の中に「遊び」が感じられる境地に達することができるようになるのであろうか。もしかしたら、ただただ品のない話をばあさん相手に繰り返して、顰蹙を買っているじいさんに終わるような気もしないではないのだが…(笑)。そうなってしまっては、とんだじいさんだと言われかねない。先日古本屋から『小沢昭一百景』(晶文社、2003年)全6巻を購入した。少しは彼の話芸を見習いたいと思ったからである。今頃読んで果たして役に立つものかどうか(笑)。