「飲み会」三態(三)-年下の友人と-

 第二話は、Aさんという年下の友人との飲み会の話である。Aさんにはシリーズ「裸木」にも何度か登場してもらっている。彼は私よりも20歳ほど年下だから、私のような年寄りなど相手にしなくてもよさそうなものだが、何となく気心の知れた飲み友達になってしまった。どういうわけかAさんが私を慕ってくれるものだから、ついついこちらも気を許してしまうのである。たとえお世辞半分と分かってはいても、褒められて不快になる人間など世間にはまずいない。凡人の私などは勿論そうである(笑)。

 私のような年寄りを相手にして何時も嫌な顔一つ見せないところをみると、もしかしたら年寄り扱いがうまいのかもしれないなどと思ったりもする(笑)。どうせなら、年寄りなどではなく女性の扱いが上手くなった方が、趣味と実益を兼ねていいのかもしれないのだが…。今こんなふうに書いたのだが、話を聞いている限りでのこちらの勝手な想像であるが、案外女性扱いも上手いような気がしてきた。人間観察はいつも鋭いが、人当たりはかなり柔らかだからである。

 比較的大勢の飲み会の場に若い人が加わることはよくあることだが、若い人と一対一で飲み食いすることはまずない。そんな状況になれば、相手が私に気を遣うことになるはずだし、そんな相手を前にした私も、気を遣わせまいとして気を遣うことになり、お互いにむやみに疲れるからである。Aさんと二人だけでもほとんど気疲れすることなく飲み食いできるのは、何故なのだろう。職場が同じだったり、これまでの研究領域が重なっていたり、共通の友人・知人があれこれいるという事情も勿論あるだろう。しかしながら、それだけではあるまい。

 もっと大事なことは、かなり似通った感性で政治や経済、社会や文化の有り様を眺めているからなのではあるまいか。ところどころに違った評価が生まれることも勿論ある。しかしながら、大事なところではかなり共通しているように感じるのである。この感覚が何とも心地よい。何の遠慮もなく語り合える、そんな間柄はそう簡単には生まれないはずだから、お互いにそれが嬉しいのであろう。逆に言えば、私もそうだがAさんも、周りにそうした間柄の人が見当たらないのではあるまいか。だからこそ、ついつい一緒に飲み食いしたくなるのかもしれない。

 おかしな遠慮もなくまったく自由に語り合えるので、そしてまた彼は私以上に話題が豊富なので、あっという間に時間が過ぎていく。飲み食いした場所はセンター北駅近くの「旬魚旬菜かこいや」という名の居酒屋である。この場所は二度目で、前回は私が紹介した。なかなか居心地のいいところだったので、今回も又顔を出したというわけである。こぢんまりした店なので、チェーン店のような騒がしさはない。コース料理を頼むわけでもないので、適当に料理を注文しそれを肴にしながら大分飲んだ。若い所為もあるのか、Aさんは私よりもずっと酒が強い。

 料理も美味かったし、料理が載せられた器もなかなかオシャレだった。前回もそうだったが、店主の連れ合いかと思われたお店の女性もとても愛想が良く、今時珍しいような気持ちのいい接客だった。冗談の一つも言いたくなるような女性は、そうそういるものではない。注文は8時までとのことだったので、ハイボールを何杯か並べて9時過ぎまでお店に居座った。その後温和しく帰宅するつもりだったが、彼から「もう一軒行きませんか」と誘われた。久し振りだったので私の方もその気になったが、この時間では最早開いている店はなかった。

 諦め悪くあちこち探し回ったが、どうしても見付けられなかったので、やむなくコンビニでお酒を買い込み、近くのビルにあった花壇の縁に腰掛けて、飲みながらお喋りした。じいさんとおじさんが、柄にもなく若者の真似をして路上飲みをやっているような塩梅である(笑)。二人とも尽きることなく話をした。こんなふうに書くと格好好いが、ちょっと行儀が良すぎるかもしれない。お互いに吐き出したい愚痴が溜まっていたようにも思われた。自分自身の生き方が、そのまま世間に受け入れられてはいないから、愚痴が溜まるのであろう。

 しかしながら、長い時間話が続いていると、どうしても同じ話をする危険が高まる。以前聞かせた話をまたやってしまうのである。そんなことは何時でも何処でも生じうるのであるが、年寄りどうしであればお互い様ということもあって、それほどは気にはならない。しかしながら、若い人が相手の場合、相手は同じ話などほとんどしないので、年を取って記憶力の低下した私の方がよく同じ話をしてしまいがちである。もっとも記憶力の問題だけではなかろう。年寄りの生活世界はそれほど変化に富んでいるわけではないので、昔の話を繰り返しがちになるのである。その危険があるから、「前にも言ったような気がするけど」と前振りを入れることになる。話す前にしっかりと弁明しておくのである(笑)。

 年寄りが同じ話を繰り返すということに関しては、山藤章二さんのエッセー集である『老いては自分に従え』(岩波書店、2015年)に「リピート」という一文があり、そこで紹介されている話がかなり笑える。あまりに面白かったので、この話を飲み会の場で何度も周りに披露している。他人様の文章を自分のブログに長々と引用するのもどうかと思ったが、せっかくだから、途中を省略しただけでそのまま紹介してみる。以下がその文章である。

 敬愛する飯沢匡先生(劇作家)と、わりと頻繁にお会いする時期があった。先生、70歳くらいの頃だ。会話の途中でふと、こんなことを言われた。 「山藤さんには随分といろいろな話をして来たけど、中には、あ、その話は前にも聞いたということがあるかも知れません。そういう時は遠慮なく、その話は前に伺いましたよと、おっしゃってください。いや、年をとると誰にもそういうことが多くなるんですよ。気をつけているつもりでも、これは仕方がないことなので、是非注意してくださいね。あなたならはっきり言ってくれそうだから、頼みますよ」…。 私は「わかりました。そういう時はかならず正直に申し上げます」と答えた。 実は先生の言葉、これで4回目なのである。

 困った。「いまの先生のお話、実は前にもおっしゃっていました。たしか3回ほど、同じことを……」と、伝えるべきか否かで迷った。で、結局、言わないで、今日はじめて聞いたという顔で伺っていた。その対応でよかったのだ、といまも思っている。話の内容はタメになることも、さほどでもないこともあるが、くり返して伝えたい、というほどのものが話し手の心の中にあるからくり返し出てくるのだろうから、「それは前にも伺いました」とは言いにくい。それはかなり難しいことなのだ。

 (中略)いま、目の前で飯沢先生が私に話してくれている。それは有意義な内容なのだが、前に何度も聞いているので驚きはない。それで困っているのだ。(中略)「私が同じ話をくり返したら、山藤さんは指摘してくださいね」とも言われている。本当に指摘したら先生は自分の老化現象(ボケ)を恥じるかも知れない……。短い時間に判断して、「へえー、そうですか」とどっちともとれる反応をした。私は幸いにも表情の少ないタイプなので、どっちともとれる顔は得意なのである。それにしてもご老人との対話は難しいねえ……。という話を目の前の男に話したら、「ご隠居、いまの話、前にも聞きましたよ」。

 以上が山藤さんの文章である。要約すれば、年寄りが同じ話をするという話を、年寄りになった自分が繰り返しているという話であり、何とも落語のような展開であり落ちである。何度読んでも笑える。そして、どうしたことか他の人に教えたくなる。あまりに笑える話なので、その笑いを共有したくなるからなのだろうか。そんなわけだから、私はその面白い話を飲み会の場で性懲りもなくあちこちで繰り返し紹介しているのである。「リピート」している自分を何一つ反省することもなく…(笑)。

 周りは年寄りに優しい人ばかり(のよう)なので、「高橋さん、いまの話、前にも聞きましたよ」などと言われたことはないが、そんなふうに心のなかで思っている人は、何人もいるのではなかろうか(笑)。言うまでもなくAさんはそんな一人である。年寄りが何時もの飲み屋で、いつもの若い知り合いを相手に、またまたいつもの同じ話をしている、そんな落語の世界のような情景が彷彿としてくるので、自分のことながら何とも笑える。笑いは、自分を笑うところから始まるのではあるまいか。そんな笑いが好きである。